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2017/03/17-(2) 平均律で祝えば

 それなりの距離を歩き回ったせいか、ふだんなら三駅もあれば文庫本を広げるはずなのに、この日は吊革につかまったきり、ずっとぼんやりとしていた。電車の中はまだ定時前ということもあって、座席は帰宅中の学生なんかで埋まっているにせよ、それほど混み合ってはいなかった。

 次に降りたのは渋谷だった。電車を降りるとすぐに私立中学の生徒らしい、小ぎれいな制服を着た女の子たちの集団が電車に乗り込もうとしていた。彼女たちを見やりながら私は、渋谷の私立中学に通学するというのは一体どんな気分なのだろうと思った。彼女たちにとっては単なる日常でしかないのか、或いは、都心で学び、遊ぶことにまんざら悪い気もしてないのか――それとも、学校がどこにあるかなんていう些事のために一喜一憂する余裕もなく、なにかまったく別の悩みのために静かに苦しんでいたりするのだろうか。
 『まったく知りもしない子のことでこんな想像をふくらませるなんて、自分はなんてばかなことをしているのだろう』と、改札口へ向かう階段を上りながら私は思い、ひとり、静かににやにやしていた。

 地上に出て、大きなスクランブル交差点を渡り、まっすぐ中古CDショップへと向かった。
 こちらの店舗ではセールをやっているのは地下一階のジャズやR&Bのコーナーだけで、2階のポップスのコーナーではいつも通りだった。3階はいつの間にか商品が移されていて、レコードのみになっていた。一応、2階もひと通り見たけれど、気になったのは高音質盤の発売で値が下がったピチカート・ファイヴのオリジナル盤と10代なかば頃に熱心に聴いていた邦バンドのアルバムが何枚か。あとはブロンディとかポリスとか、そんなものだった。CDの並びが前と変わっていたこともあって探すのが中々面倒で、結局十数分ばかり見たあと、何も買わずに別のフロアに移った。
 決算セールといってもまだ三日あるうちの初日、それも平日の真昼間だったから、思ったよりもだいぶ空いていた。狭い店内に7,8人ほどいたけれど、棚を見て回るのも苦じゃなかった。去年の梅雨頃にセールでこの店に来た時なんかはひどいもので、リュックサックを背負ったままレコードを漁って通路を圧迫する人なんかもいたし、何より2,3日雨が続いていたころだったから蒸し暑くてたまらなかった。
 ただ、今日は棚を見る分には快適だったけれど、行くまでに『もしこれがあったら最優先で買おう』と思っていたもののほとんどはなかったり、或いはあってもリマスタリング前の古い盤だった。結局そのなかで買ったのはチャールズ・ミンガスの『道化師』と、スプリームスの『愛はどこへ行ったの』で、他に気になったのはスタンリー・タレンタインの『シュガー』とテンプテーションズの『シング・スモーキー』、あとは『バード・アンド・ディズ』くらいだった。
 買うと決めた2枚を持ってレジに行くと、真っ黒いトレーナーにニット帽といった格好の、でっぷりと太った黒人の男性が、会計機の手前にある試聴用のプレイヤーでレコードを何枚か持って熱心に試聴をしていて、思わず気圧されてしまった。ニット帽の上から大きなヘッドフォンをかけてレコードを聴きいる姿はまったく様になっていて、そのまま写真を撮れば音楽雑誌にでも載せられそうな感じさえした。
 十秒だか、二十秒だかわからないけれど、少しの間私が驚いてぽかんとしていると、奥のカウンターのいた店員の男性の「お待ちならこちらにどうぞ」という声で我に返った。その店員は、去年の梅雨に来たときも会計をしてくれた人だった。
 店を出たのは16時まであと10分もない、というところだった。予定では、CDを3枚か4枚買ったあと名曲喫茶に行き、16時半にメトロの24時間乗車券を使って17時までに地下鉄で帰れるところまで帰るという算段になっていた。けれど、この計画を強行しようとするとコーヒー一杯550円の名曲喫茶にたった30分ぽっちしかいられないことになる。そんなもったいないことはしたくない。かと言って、CDのためだけにあちこちを歩き回った挙句300円ばかりを浮かせるためにそそくさと帰るのも嫌だった。
 ひとまず大通りに向かいながら、どうにも今日は外に出てからずっとばかみたいなことをやっているな、と私は思い、自分の顔を引っ掻いてやりたいような、そんな衝動に駆られた。汗で少し湿っているシャツや、ふたたび腹の奥から湧き出しつつある空腹感や、汗に汚れた乗車券やさまざまなものが、どうしようもなく私を苛立たせていた。

 ひとまず名曲喫茶の前まで行こうと決めて、大通りから小道に入り坂道を上っていると、名画座のあるビルの一階前の看板に、うぐいす色の長袖ともんぺ服を着た女の子の絵が描かれた大きなポスターが掲示されているのが目に入った。それは、私がずっと気になっていたアニメ映画で、名画座のあるビルの2,3階に入っている劇場で半年前の封切りからずっと上映が行われていた。個人からの寄付を募って制作した作品だとかで、パイロットフィルムの公開とともに支援者募集の記事が出た時からなんとなく気になっていたのだけれど、いざ公開してみると反って気が引けてしまうくらいに盛り上がっていて、結局公開から半年近く経っても観ていなかった(そういえば、去年はそんな具合で観ずじまいに終わったアニメ映画がほかにもあった)
 急に私はその映画のことが気にかかって、ひとまずエレベーター前にある今日のタイムテーブルを確認してみることにした。ふしぎな偶然もあるもので、見てみると上映開始は16時ちょうどで、今がまさにその時刻だった。
 私は見るか見ないかを決めきることができないまま、何かに引き寄せられるかのように階段を(エレベーターではなく、階段を!)上り始めていた。受付のある3階につく頃になって不意に『行った所で席がないかもしれない』という考えが頭をよぎった。けれどそう思ったころには既に私は劇場の中に足を踏み入れており、受付の大学生くらいの女性は既に私の方を見ていた。
 内心は、もう席など残っているはずがないという諦念でいっぱいになっていたけれど、このまま踵を返すのもきまりが悪かったからひとまずチケットを買いに来たんだという体で受付に行き、16時からの回は入れますかと訪ねた。「はい、入れます」と女性は笑顔で言った。