読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016/11/30 フィービーなんてうそさ

 去年の12月に『ライ麦畑でつかまえて』のことについて書くのはどうだろう、と書いた。その時は結局書かず仕舞いだったのだけれど、今日、書いてみようと思う。

 この月末の3日ほどの間に、暇を適当につくって読み返した。読むのはこれで4回目か5回目で、読んだのはいずれも白水社から出ている旧訳版だ。最初に読んだ時は100ページ弱でやめにしてしまって、その翌年、改めて最初から読みなおし、今度はちゃんと読み通した。それからだいたい一年から一年半くらいの期間を空けて、何度も読み返していた。この前に読んだのは先にも書いたとおり去年の12月のことだから、今度も一年ほどの間があった。

 ただ、この本を何度も読み返しているとは言っても、私は別にこの小説をとくに面白いと思っていなかったし、この『ライ麦畑でつかまえて』以外のサリンジャーの作品も別にこれといって好きではなかった。初めて読み通した時もまったく訳がわからないまま読み終わり、結局大まかの流れさえもよく把握できていなくて、ある程度話がつかめるようになったのは更に読み返してからのことだった。
 でも、初めて読んだ時自分がどう考えていたのかはよく覚えている。私は数枚ページをめくるたびに、こう考えていた――『自分はなにが悲しくて、こんなどうでもいい話を一生懸命読んでいるんだろう!』って。
 ペンシルヴェニアの高校の同級生がどうとか、そういう話はともかく、母親から送られてきたスケート靴が見当違いのものだったこととか、ガールフレンドの犬は躾がなってなくて人の庭先で用を足すんだとか、そういうまるで中身のないことなんて読んだってしょうがないと思っていたし、ましてや“僕と話すやつはみんなウィットにとんでやがるんだな”なんて喋り方にはほんとうにうんざりさせられた。それでなくともこの小説にはこれまで読んできたようなものと違って物語に筋がなくて読みにくい。ただ高校を放校処分にされた16歳のホールデン・コールフィールドが延々喋っているだけで、話の内容は要領を得ないし、そのうえ当の語り手のホールデンのことさえまったく掴むことができない。300ページ、延々彼のことが彼自身によって語られているのにも関わらずだ。私が最初に読み通して彼について分かったことは、小説を読むのが好きだということと、気取り屋だということ。そして妹のフィービーや、弟のアリーなんかをほんとうに可愛がってる(可愛がってた)ということだけだった。

 けれども、そんな調子ででも、何ひとつ惹かれなかったわけではなく、なんとなく分かるな、と思う文章もあって、いくつかはメモにとって残しておいた。そのうちの、特にいいと思ったものをひとつ、ここに残しておく。

本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わった時に、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持ちを起こさせるような本だ。

――J.D.サリンジャー野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』 p.32

 ただし、私はこれや『フラニーとズーイ』や、『ナイン・ストーリーズ』なんかを読んで、サリンジャーに電話をかけたいとは思わなかった。多分それは、ホールデンサマセット・モームに電話をかけたいとは思わないのと似たようなことなのだろう。

 それからもうひとつ、初めて読んだときからずっと印象に残っているところがある。それは13章から14章にかけての、ホールデンが安ホテルでエレベーターボーイに勧められて娼婦を頼み、騙されて5ドル多く巻き上げられた挙句、おまけにボーイを罵って殴られる場面だ。この場面だけは初めて読んだときから妙に惹き込まれてしまって、読んでいるうちにまるで騙されたのは自分だったかのように思えてきて、私まで泣きたいような気持ちになってしまった。そして初めて読み通して以来、私がなにかほんとうにばかげた失敗をやったとき、ときどきにこの場面のことを思い出した。とくに、17か18くらいの時、東京に一人で出掛けて行って、うっかり風俗店の集まっている区画に迷い込んで客引きにしつこく絡まれた時は、とくにこの場面のことが思い出された。その区画から逃げたあとに行ったファストフードショップで野菜入りのチキンサンドを食べている時、サンドイッチを地面に叩きつけてそのままテーブルに突っ伏して泣いてしまいたいような気分になったことは、多分この『ライ麦畑でつかまえて』と一緒にあと10年は、或いは、死ぬまで忘れられないような気がする。
 おそらく、このまったくぴんと来なかった小説を何度も読み返し続けてきたのは、このことがひとつ、大きな理由としてあるのだろうと思う。


 ここからは、今回読み返して思ったことを書こう。
 私は、この4回目だか5回目だかの段になって、初めてこの小説はいい小説だな、と心から思った。ただし、それはこの小説にすっかり心酔したという意味ではなくて、いい加減に書かれたものではない、書き手の色々な思惑や技巧の上に立っている作品だ、という意味でそう思ったのだ。
 訳者あとがきや辞書サイトなんかに“この小説には同時代のティーン・エイジャーの口調を正確に捉えている”と書かれているけれど、それはこの翻訳版からもいくつか読み取れる。口語らしさを出すために2つの文に区切るべきところをあえて雑なつなぎ方をして冗長にしたり、文末にとりたてて必要のない一言を付け足したり(例えば『~なんだよ、大体において。』なんか)、口語特有のリズムをよくよく意識していて、ときにはわざと文章を破綻させているのがわかる。それから、こうした『ライ麦畑でつかまえて』やサリンジャーに影響を受けたもの、或いは直接影響を受けているかは不明だけれど“サリンジャー的”なものは、小説に限らず映画などでもよく見られる。例えば、クエンティン・タランティーノの作品群で度々行われる物語の展開上全く必要のない長ったらしい会話劇なんかはまさに“サリンジャー的”だし、他にもフランソワ・トリュフォーアントワーヌ・ドワネルを主人公とする一連の作品群は、主人公が作者の分身的存在であるという点で『ライ麦畑でつかまえて』と似通っている。実際トリュフォーは熱心な読書家で、この小説と同時代の作品にあたるブラッドベリの『華氏451度』を映画化した際、焚書される書物としてこの本をシェイクスピアバルザックらの作品と一緒に用いている。

 それから、ホールデンが行く場所や話題に挙げている映画なんかの話も、いろいろ分かるようになってきた。去年の12月に見返す少し前に、妹のフィービーのお気に入りの映画として作中に出て来る『三十九夜』を偶然ある劇場で私も観ていて、それから以前よりもずっとこの小説に馴染めるようになった。ただし、私は『三十九夜』や『バルカン超特急』だとかのイギリス時代のヒッチコックはあんまり好きではなくて、どちらかというとハリウッド以降の作品が好きだったのだけれど。他にも映画俳優の名前がちょくちょく出てきていて、ゲーリー・クーパーケイリー・グラント(作中ではケアリ・グラントとなっていた)、メルヴィン・ダグラス、それからローレンス・オリヴィエ。私もよく知っている有名な俳優たちだ。それから、この中のローレンス・オリヴィエの『ハムレット』について、ホールデンはほんとうにつまらなかったと言っているのだけれども、これについてだけは私も同じ気持ちだった。とは言っても、私が『ハムレット』を観たのはまともに映画を観始めてからほんとうに間もない頃、ホールデンと同じくらいの歳の時だったから、今ならまるで違う感想を持ちそうな気もするし、なんとも言えない。

 そして、最後にひとつ。逆にここはだめだな、と思った場面がある。それは終盤の、妹のフィービーと一緒に動物園やなんかに行く場面で、ここだけはフィービーとの会話から描写されているフィービーの振る舞いから何までほとんどが嘘くさく感じられた。これまでの話は全部、確かにこれはサリンジャーおよびホールデンの――あるいはサリンジャー自身でなくとも同時代の誰かが――経験したことだという感覚があった。けれども、あの場面だけは(完全にあれを嘘っぱちだと断じてしまうつもりはないにしても)心底嘘くさく感じられたし、まるで誰かの夢の中の出来事を書いているみたいだった。確かこれまではあの場面を格別悪いものと思ってはいなかったはずだったのだけれど、今回は違った。別に自分がホールデンより優れているだとか、私はもう大人になったのだとか、そんな子どもじみたことを言うつもりはないけれど、おそらくこの小説の一番大きな歪みはこの部分にあるんじゃないかと、そう思う。そして同時に、この歪みはこの小説の中でもっとも重要な部分でもあるとも思った。
 ただ、半年後くらいには『自分はなんて適当なことを書いたんだろうな』と思っているような気もするけれど。


 実際にキーボードを叩きはじめるまで、もっと色んなことを考えていて、あれこれ適当にメモを書き連ねたりもしたのだけれど、もうこの辺で書くのはやめにする。メモに書いたあれやこれやはどれも消えてしまうか、でなければ書く価値のないもののように思えてしまって、もうこれ以上書くだけ無駄な気がする。

 これまでこうして何度も読み返してきたけれども、これからも私はこの好きでもない小説を読み返し続けるのだろうかと、読み終わってから少し考えた。この小説を読み返し続けるということは、なんとなくとても愚かなことのように思える。ただ、そう考えたうえで、私はたぶんこれからもこの本を読み返し続けるんじゃないだろうか、とも思う。
 とは言っても、先のことはわからない。ホールデン・コールフィールドもこう言ってる――“また学校に戻ったらちゃんと勉強しようと思うかねって先生やなんかが言うけれど、そんなの実際になってみなきゃ、わかりっこないんだな。思うだけなら、そりゃ勉強しようと思うよ。でもわかりゃしないよね。だから、そんなのは絶対に愚問だよ”って。