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2016/10/12-(2) いつかの警官の言いぐさ

日記

 展示室の中にいたのは一時間ほどで、展示数を考えるとなかなか長い時間だった。展示室を出た後は、案内カウンター近くにあるチラシを眺めて、いくつか気になったのを抜き出して丁寧に持ってきたファイルの中にしまった。外に出る前にすこしの間だけ館内のベンチで休んで、軽く屈伸をしてから外に出た。
 外はまだ明るくて人も多く、ローラーボードをする人とか、噴水前のベンチでぼんやりしている人とか、持ち寄ったゲーム機で遊んでいる小学生とか、色んな人がいた。私は少しだけ公園の中を歩いてそうした人たちを眺めながら歩いて、来たときとは違う門を通って公園から出た。

 その後は行く前に調べておいた中古レコードショップの場所を確認して、それから駅に戻り、反対側に出て喫茶店を探した。目当ての店は去年にも行ったところで、こちらは書類を貰いに行った事務所とは違って、ぼんやりとはしているけれどなんとなく場所を覚えていた。東側の階段を降りて左の小道へまっすぐ歩いた先、右手にある店……。
 店は確かに記憶の中に残っていたとおりの場所にあったけれど、開いてはいなかった。

 駅の付近の喫茶店をいくつか探して回ったけれど、他の喫茶店に入る気にもなれず、あてもなくぶらついたあとで、先に場所を確認しておいた目当てのレコードショップに行った。その店は駅から少し歩いた、他に店らしい店のない通りにあって、少し浮いて見えた。店内は他の店舗の比べると空間にゆとりがあって、あとに行った大宮の店なんかよりも居心地がよかった。

 この日はわりと新しい邦楽のアルバムを一枚探したいと思っていたくらいで、他にとりたてて買うと決めているものはなかったので、ポップスのコーナーやジャズやソウルのコーナーをあてもなくふらふらと見て回った。レイ・チャールズ、ザ・シュプリームス、リンダ・ロンシュタットマル・ウォルドロンウェス・モンゴメリーウィングス――。
 目を引くものがたくさんあったことや、それほど混み合っていなかったこともあって、結構な時間棚を眺めていた。その中で目を引いたのはオスカー・ピーターソン・トリオの『ナイト・トレイン』とマイルス・デイヴィス・カルテットの『ワーキン』、レスター・ヤングの名演集と廃盤になったデヴィッド・ストーン・マーティンのイラストで飾られた『レスター・ヤング・トリオ』、『ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム』の入ったサム・クックのベスト盤、ミルト・ジャクソンセロニアス・モンクの共演盤で……その他にもボブ・ディランの『ミスター・タンブリン・マン』の入ったアルバムを探していたのだけれど、これはどのアルバムに入っていたか忘れてしまっていたので、早々に選択肢から外してしまった。
 それとは別に当初の目的だったフレネシという、一昔前のポップスやエレクトロ、ボサノヴァなんかを混ぜ込んだような音楽を作っているアーティストのアルバムを一枚先に取っておいて、それからあと2枚をどれにすべきかうろうろしながら悩んで、結局『ナイト・トレイン』とサム・クックのベスト盤を選んだ。

 どうやら美術館よりも長いことレコードショップに居たらしく、もう空は大分暗くなってきていた。早足で駅の方に向かい、駅前の喫茶店に寄るか少しだけ迷ったけれど、そのまま電車に乗った。電車はちょうど駅の遅延と帰宅ラッシュとが重なって、吊革に手を掛けるのもままならないほど混んでいた。これだけ混み合った電車に乗るのは久々で、私の手すりを掴む手は緊張のせいか汗でぐっしょりと濡れていた。降りる駅まであとふた駅というところだったけれど、我慢できずに途中で降りてひとつ後の電車を待った。今度はいくらか空いていた。
 駅から出て、少し寄り道をしてから家のある方向へと歩く。まだ空気は昼間の日差しを溜め込んでいて、歩いている内に少しだけ、胸と背中に汗をかいた。


 ボブ・ディランノーベル文学賞授与が発表されたのはこの翌日のことだった。私はまさか、昨日ボブ・ディランのアルバムを買うのと、今日以降にボブ・ディランのアルバムを買うのとでは持つ意味が全く変わってしまうとは思わなくて、受賞についての速報を眺めながらひとり、苦笑いをしてしまった。そしてやはり、何故昨日買わなかったんだろうという後悔が頭を過り、自分はなんて間の悪いやつなんだろうと心のなかで悪態をついてみたりした。
 それから数日の間ときどきに思い出しては小さなため息をついたりしていたのだけれど、週の明けに美容院に行った際、美容師さんに自虐混じりにその話をすると気持ちのいい笑顔で笑ってくれて、私はそれまで溜め込んでいた後悔がほんとうに些細な、およそ馬鹿らしいものだったことに気付かされた。そして、これから先の数日に会う人たちにこの話をしたら、同じように笑ってくれるだろうかと、そんなことを考えた。