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2016/08/14-(1) 最近の号に載ったお前の詩を読みに

日記

 8月の半ばに、ピエール・オーギュスト・ルノワールの特集展示のために、乃木坂に行った。
 美術展の類に行くのはもう大分久しぶりで、最後に行ったのは国立西洋美術館で、まだその時は世界遺産に認定される前だった。今から2年前の2014年の夏頃、フランシスコ・デ・ゴヤの『戦争の惨禍』という版画の作品集の一部を展示していて、大々的な特集展示と比べると規模や希少性は劣るにしても、常設展分のチケットだけで版画も一緒に見ることができるというのはかなり有り難かった。あの一日はよく覚えていて、たしか日記にも少し書いたと思う。なんだかとても間抜けな一日で、時間を掛けていろいろな場所を歩いたのに、その日の終わりにはなにもかもが徒労に終わってしまったように思えた。
 その一日のうちに決定的ななにかが起こったというわけではないのだけれど、それを最後に私の興味は美術展から古い映画へと移っていった。最初に映画館で観たのは『午前十時の映画祭』でかけられていたキャロル・リードの『第三の男』で、そこから『黄昏』を継いで、名画座という場所に落ち着いた。

 この展示に行くことになったのは、母がルノワール展の広告を見て行きたくなったので美術館までの行き方を調べておいてくれ、と言ってきたことがきっかけだった。乃木坂に行くには地下鉄を使わなくてはいけないし、それも私の街から乃木坂に行くには私鉄からメトロに乗り換えて、そこからさらにメトロの別の路線に乗り換えなくてはならず、慣れていない人にとってはかなり厄介で、一人では美術館に行くだけでも難儀するだろうなと、そう思ったのだ。それに、そういったこととは別に、母が今の、仕事と責任とに囲まれた生活に少なからず疲れていて、半日だけでも今の環境を離れて羽伸ばしになるようなことをしたいと考えていること――そしてできれば、それに私が付き合ってくれればいいな、と考えていることがなんとなく分かったから、というのもあった。


 前の晩、寝ついたのは3時間近で、起きたのはその5時間後。ひどく頭がくらくらしていて、起きてからの数分間は、ひとりで行ってもらうように言おう、という考えが頭をよぎったけれど、結局すぐに起きて、シャワーを浴びて汗を落とし、古いジーンズに一番新しいワイシャツを着て、いつもと同じような朝食を取った。そして最後に小さなペットボトルに入った水やら文庫本やらファイルやらを小さなバッグに詰め込んで、母とともに家を出た。

 せっかく山手線の内側まで乗り換えを重ねて出かけるのだから、ついでに他の場所も少し見て回るのがいいだろうと思って、私鉄との乗り換えの前に一度改札を出てメトロの24時間乗車券を買ってから別の電車に乗り換えた。最初に副都心線に乗って明治神宮前で電車を降り、さらに半蔵門線に乗り換えて乃木坂に向かった。副都心線と違って半蔵門線は日曜だというのに(半蔵門線に限っては、日曜だからなのかも知れないけれど)かなり空いていて、乗っている人たちの多くは私や母と同じく乃木坂を目指しているらしく、電車の乗降口前の液晶モニターをしきりに気にしていた。

 国立新美術館に来るのは本当にひさびさで、電車から降りてもまったく4,5年前の記憶は蘇らなかった。構内の案内表示を確認して6番出口から直接美術館に入ることができるのを確認してから改札に向かった。駅を出てすぐにルノワール展の入場券のチケット駅前販売ブースがあったのだけれど、結構な人が並んでいたので買わずにそのまま美術館に向かった。案の定美術館前の販売店は空いていて、まったく待たずに買うことができた(これは国立新美術館に限らず上野方面の美術館なんかでも同じで、駅前の販売店より美術館前の販売店のほうが空いている、ということがよくある)

 日曜日だったし、もう展示の最終日まで10日を切っていたからかなり混みあうかもしれない、と考えていたのだけれど、思ったよりはいくらか空いていた。客層は子供連れから大学生、老人夫婦までいろんな人がいた。

 鉛筆を貰いそびれてしまって気に入った作品を書き留めておくことができなかったのだけれど、気に入ったものは多かった。覚えているなかで一番最初に「これは」と思ったのは、展示番号14番の『ポール・ベラール夫人の肖像』だった。
 画家として、そしてひとりの女性を愛する男性としてのルノワールは常に丸みを帯びた顔と穏やかな表情、そして光を吸い取ってしまうようなやわらかな肌と肉に惹かれ続けていたようだったけれど、これはそうした彼の美意識が存分に発揮された他の女性画とは少し雰囲気が違っていた。

 きれいに編まれた髪の毛にきりっとした眉毛と眼がほかの肖像画にはあまり見られないもので、かと言ってそれがほかの作品とはまったく違うものを目指しているかと言うと、そういうわけでもない。空間と肌によって縁取られた顔の輪郭はやはり丸みがあったし、僅かに上がった口もとからは、ほかの女性と同じように暖かみの中に根差しているものだ、と感じさせる確かなものがあった。
 私はなんとなく、この夫人の目線の先にいるのが私だったら……と、そんなことを考えたりした。

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