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2016/06/02 もう消毒は済んだんだから

 年度が変わってから、ほとんど映画を観ていなかった。
 数年前から映画を観始めて、それからどんどん鑑賞量が増えていたのだけれど、4月から是が非でも生活を変えなければならないということもあって、意図的に避けていた。4月に入って観たのが2本。5月に観たのが4,5本というところで、いずれも名画座で一日単位ないしは一週単位でのみ上映されている古典作品だった。こうした古い作品はレンタルDVDショップでもそれほど数が置かれていないし、ディスクメディアを買おうにも値段はかなり高め(これには色々な事情がある)で、電車賃とチケット代を合わせても観に行ったほうが安上がりなので、気分転換も兼ねて観に行くことにした。とは言ってもお金はないので、喫茶店にも寄らないし、食事を済ませていないときは菓子パンとかを買って適当になんとかしたりしなくてはいけないのだけども。


 4月に観たのはゴダールの『男性・女性』と『女と男のいる舗道』だった。詳しい日にちは覚えていないけれど、月の半ば頃だったはずだ。観に行ったのは夕方過ぎの最終回で、せっかく高田馬場に行くのだからついでにJR駅沿いにあるディスクユニオンを観に行ってみようとか、よく行っているミカドというゲームセンターで久々に1クレジット分だけでもピンボールをやってみようかとか、そんなことを前日に考えていたのだけれど、結局当日になってみるともたついてしまって、ディスクユニオンの場所を確認しただけで、これといってCDを物色する暇もなく入って5分と経たず買ったチケットを握りしめて名画座にとんぼ帰りすることになってしまった。

 映画を観るのは10日振りくらいだったけれど、2つともそれほど長い映画ではなかったので何か集中できないということもなかったと思う。
 私が気に入ったのは『男性・女性』で、『女と男のいる舗道』はあまり気に入っていないし、こうしてあれこれ振り返っている今現在から観ても感想はほとんど変わっていない。一般的には後者のほうが優れている、という話らしいけれども、それでも私は前者が好きだ。

 『男性・女性』を観て私が一番最初に思ったのは、この映画の主人公には「この映画の主人公ははつくりものなんかではなく、確かにいるんだ」と思わせてくれるようなものがある、ということだった。
 ひとつの映画としては非常に散漫な出来だと思う。共産主義に傾倒する少し前、ということもあって後の作品群に観られるような政治的色彩も多分に含まれているし、かと思えばトリュフォーが撮ったみたいに生き生きとしたジャン=ピエール・レオーの姿がある。主軸となる主人公と恋人の関係も駆け出しのアイドル歌手のシャンタル・ゴヤと彼女に熱烈な想いを寄せるジャン=ピエール・レオーと、きわめて簡素な割に、チャーリー・パーカーがどうだの、ボブ・ディランがどうだのと文化論めいたものを語るだけのエピソードがあったり、カフェでコーヒーを飲んでいると隣の男女が激しく口喧嘩をしはじめて、挙句に……、というような主人公が直接関与しないエピソードが長々と挟まれたりする(その上、その口喧嘩している男を演じているのがゴダール自身なんだから笑ってしまう)
 ただ、そうした主人公が直接関わりを持たない話の中でさえも、確かに主人公の目線を感じることができ、確かにそうしたなんでもないような、なんでもあるような周囲の事件の中から主人公を浮かび上がらせてくれる何かがある。

 そして何より、あの映画の中には衒いがない。間違えてほしくないのは、この「衒いがない」というのは、「衒いがあるということ」なのだ。これは周りくどい表現に感じられるかもしれないけれど、観てもらえれば私が何を言いたいかは分かると思う。
 レオー演じる青年はとても素直だし、シャンタル・ゴヤへの想いは紛れもなく本物なのだけれど、同時にカフェで友人とあれこれ話をするうちに調子に乗って、近くのテーブルにいる女性ににやにやしながら声を掛けたりするような間抜けさもある。二人の仲をときどきに取り持ってくれる女友達となんてことない話で喧嘩をすることもある(こういう場面に映るレオーのむっつりした表情が、私はほんとうに好きだ)。決して綺麗ではないけれど、だからこそ「彼は実際にいてもおかしくない」とも思えるし、「彼は私に似ている」と思わせてくれるのだ。

 レオー以外にも、刺さるところはかなり多かった。兎に角あらゆるエピソードが妙ちきりんで脈絡がなく、だからこそ印象深いシーンがいくつもある(ただし、あえてここでは書かない)。シャンタル・ゴヤの外した歌声もとても可愛らしかったし、それがバカみたいに大音量で流れる、というミスマッチさも好きだ。予告編や本編でたびたび使われている主題歌はほんとうに気に入っていて今でもときどき動画サイトなんかで調べて聴いたりするのだけれども、これは映画の中だけで大事に聴いていくほうがいいだろうな、とも思う。
 とはいえ、もしこの映画に少しでも興味がある人がこれを読んでいるのなら、先ず予告編を観るのもいいと思う。*1観るか観ないかは解説や辞書サイトの類ではなく予告だけを観て決めればいい。予告編を観て「これは!」と思うところがあったのならきっと気に入るはずだし、観終わった後に「これはなにも読まず、なにも考えずに観るべき作品だ」と思っているはずだ。

 『女と男のいる舗道』については、わざわざ好ましく思わなかった映画について長々と語るのも悪趣味だろうから、簡潔に書こうと思う。
 私はこの映画を観たとき――これは私の主観でしかないけれど――「ああ、これは男が作った女の話だな」と真っ先に思った。この映画の作品紹介には実存主義がなんだのと書かれていたけれども、私には舞台劇を見ているみたいな古めかしさが感じられたし、俯瞰的に語られているようで(実際に説明的なところは何ひとつなかったけれど)、私には妙に同情めいた語り方をしたがっているように感じられてならなかった。多分これは、主人公のアンナ・カリーナが周囲の人々や男たちに流されてばかりで、カリーナ自身の強さを今ひとつ読み取ることが出来なかったからだと思う
 カリーナがカール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を観るエピソードやカフェで偶然隣り合った老人と語り合うシーンだとかはいいなと思ったし、何ひとつ気に入らなかったわけではないけれど、観終わった時にこれだ、というような満足感はなかった。


 とても良い時間を過ごせたと思う。2本目の『女と男の-』の前の休憩時間にコンビニで買ったドーナツを食べながら『男性・女性』のあの歌がまだ頭のなかで流れていたのを妙に覚えている。
 去年の夏に渋谷東急本店のデパート内にあるル・シネマという単館シアターでヌーヴェルヴァーグ特集をやっていて、ゴダールの『はなればなれに』という作品を観に行ったときは平日の真昼間だというのに満席で、ル・シネマの案内員の女性に「本特集でのゴダール作品はいずれも満席となることが多いので、チケットをお求めの際は是非お時間に余裕を持ってお越しください」とまで言われたのだけれども、今回はかなり空いていた。早めに来ずとも観られるのは有り難いけれど、人が来ないのもそれはそれで寂しいものだな、とも思う。ただ、そう思ってすぐに去年渋谷の名画座が超満員になった時は逆のことを考えていたことを思い出して、結局その時々で身勝手なことを考えているだけなのだなと思って笑ってしまった。

 5月には池袋でフリッツ・ラングを4本観てきたのだけれど、多分この時のことは書かないだろうな、と思う。
 ただし、『暗黒街の弾痕』はほんとうにいい映画だ、ということだけはここに書いておきたい。