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2016/05/26 昔も、今のこの気持のまま

 姉さんに、頼まれ事をされて久々に外に出たついでに、街をぶらついてきた。

 ここのところほとんど外に出ていなかった。先週末に洗髪剤や歯ブラシ、掃除用の粘着ローラー、コーヒー豆なんかを買いに行ったついでに少しばかり駅の周辺を歩き回ったくらいで、それ以外を除けばほぼ丸々2週間外に出ていなかった。体調はかなり悪く、ずっと座りきりで過ごしていたせいで椅子を替えてからすっかり落ち着いていた腰痛がまたぶり返すようになった。他にも日中は炭水化物ばかりで空腹をごまかしていたせいか露骨に体重が落ちていて、体力の衰えも顕著だった。先週の初め頃からまた少しずつ運動を始めたけれども、不摂生な生活体型もあってまだそれほど目に見えて効果は出ていなかった。

 11時に電話の音で目が覚めて、それを眠気のために適当にやり過ごすと、しばらくしてiPod touchに姉さんからメッセージが来た。今家から出られないのだけれども、至急これを買ってきて届けて欲しい。出来ることなら15時くらいまでが望ましいのだけれど……、と、そういうようなことだった。まだその時点では眠気はかなり残っていたのもあって、正直言って外に出ていくのが億劫だったのだけれど、今の姉さんのことを考えれば断るという選択肢はなかったし、以前から引っ越したアパートに一度来て欲しいと言っていたから、これもいい機会だと思うことにした。

 1時間ほどかけて朝食(私はいつも、食べる時間に関係なく、起きて一番最初に食べるものを朝食と呼んでいる)を食べたり、ルイ・アームストロング・オールスターズの「聖者の行進」を聴きながら小さく口ずさんだりしたりして目を覚まし、それから顔を洗い、ゆっくりと着替えて、財布と身分証の類の入ったカードケースを新しく買ったバッグに詰め込んで外に出た。

 買ってくるよう頼まれたものは私が買うことのない、これからも先ず縁のないであろう代物で、ちゃんと見つけられるか不安だったのだけれど、店に入って5分と経たずに買うことが出来た。店を出て、そこからほど近い姉さんの家に向かった。家からそれほど遠くにあるわけではないけれど、駅から遠くこれといった店もなかったので、この周辺を歩くのは今日が初めてだった。
 見える建物のほとんどは戸建てや6,7階建てくらいのそれほど高くないマンション、アパートメントくらいで、コンビニエンスストアはなく、代わりに古めかしい青果店や床屋、小学生くらいが野球やらサッカーをするのに十分な広さのグラウンドと遊具があった。平日でまだ小学校の下校時間にもなっていないくらいだったから閑散としていたけれども、そのすぐ近くの住宅街には楽しそうにおしゃべりをしている30代くらいの女性や、半袖短パンのおじいさんが自転車を漕いでいたりした。

 姉さんの家に着いたのは14時前で、時間もかなり余裕があり、せっかくだからと1時間ほどのんびりさせてもらった。姉さんの方もやることが山積しているとはいえ、会話の乏しい平日の真っ昼間を過ごすのには大分退屈していたようで、あれこれ話をした。今の具合はどうかとか、新居の居心地はどうだとか、この辺りはだいぶ雰囲気が違ってのんびりしているだとか、実はすこし小道に入ったところに駄菓子屋なんかもあって、自分たちが子供の頃にもあったような10円を入れて遊ぶ古めかしいゲームが置いてあるとか、そんなことを。
 姉さんは元気そうだった。今はとにかくあれこれ気をつけなくちゃいけないことが多くてあまり眠れないのだけれど、いちばん大事な時期を超えたことで、満足気な表情をしていた。


 15時近くなったところで、汗でべたついた顔を洗わせてもらって、それから姉さんの家を出た。
 外はとても暑かった。確かこの日は気温が30度近くなっていて(或いはそれ以上だったかもしれない)ほとんど夏と言っていいくらいの天気だった。今月のはじめに大事な用事で出掛けて以来、真っ昼間に出歩いたのは池袋に映画を観に行った2日間くらいで、その他は夕方以降に外に出ていて暑い時間帯に出歩いていなかったから、外に出て5分と経たずまた汗が出始めていた。それでも、普段の部屋にこもりきりでいる時の不愉快なじっとりとした汗と違ってさらさらしていて気持ちがよく、なんだかもっと歩き回って汗をかきたい気分だった。

 隣町の駅までやや遠回りにのんびりと、久々の外の街の風景を眺めて回った。去年に出来たばかりの喫茶店、駅を跨ぐ道路から見えるホーム、買い物を済ませて荷物をカゴ付き自転車に載せる女性、緩やかな坂道の先に見える川、シャツに大きな汗じみをつけた筋肉質な大学生、どこかから拾ってきたらしい棒を持って元気に走り回る下校途中らしい小学生。駅前のタクシー乗り場のタクシーから反射する日の光、100円セールをやっているドーナツ・チェーン……。

 ドーナツを3つ買った後、電車には乗らず、そのまま歩いて帰ることにした。
 帰り道、ドーナツの入った紙袋を握りしめながら歩道橋を歩いているとき、不意に、ひと目も気にせずに泣きたくてたまらなくなった――というのは、歩道橋から見える街の景色がほんとうに綺麗だったのと、向かい側の歩道橋の手すりに掴まって笑いもせずじっと街を眺めている坊主頭の子どもが、ほんとうに可愛らしかったからだ。きっとあの少年も私と同じように、歩道橋から見える街の眺めをきれいだと感じたのだと思うと、それだけで嬉しかったし、そうした景色のことをこの数週間ほとんど気にすることなく部屋にこもり、外の世界のことをまるでおもしろいとも思わず、神経質そうな表情で明るくなっていく空を眺めてきた自分が悲しかった。
 あの少年みたいに、立ち止まってじっと外の風景を眺めるゆとり……それを美しいと思えるだけのゆとりが欲しいと思った。


 帰ったらすぐにシャワーを浴びて、それからコーヒーを淹れてドーナツを食べながら読みかけの本を読んでしまおう。それが済んだら明日に散髪の予約をしよう。と、そんなことを考えながら帰った。