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2016/05/05 書物はひそかに

 私は馬鹿なのだな、と最近になって気付いた。

 「私は馬鹿だ」という言葉は今までに何度も言ったり、或いは書いたりしたけれども、これまで、私がこうした消極的な言葉を使うときのほとんどは、過大な自尊心を誇示するためであったり、或いは「いや、そんなことはないよ。君は優れた人だ」なんていうような言葉を他人から引き出したいがため、というようなところがあった。けれども、今こうした言葉を使うのはそうした考えによるものではなくて、ただ「私は馬鹿なのだな」と、感じたからだ。
 それはすすり泣き、悲しみに暮れるべきことでもなければ、誰かに「いや、きみは凄い人だ」なんていうようなお世辞を言って貰わなければいけないようなことでもなく、私自身の自己愛、自尊心の崩壊を意味するわけでもない。ただ、それが事実として存在するだけなのだ。

 こうして私は馬鹿だ、ということを自覚した今でも依然として私は私が私であることを誇りに思っているし、私がとくべつな、価値ある人間であったらいいなと思う。でもそれは、「自分が価値のある人間である」という事実、ないしは事実であると思わせるような他者からの賞賛に裏打ちされたものでなくてはいけないなんてことは決してない。自分自身を誇りに思いたいという欲求を持つのはまっとうな人間としてごく自然なことだし、仮に自分がごくありふれた存在だったからと言ってそうした自己愛を放棄しなくてはいけない、なんていうこともない。私よりもはるかに優れた人物が私の前に現れて、私を全力で否定したとしても私の存在そのものにはなんら影響を与えないだろうし、逆に、私をあれこれうまいことを言って私を褒めそやしたとしても、やはり私そのものはなんら変わることがないのだ。もちろん、批判されることや否定されることはとてもつらくて、思わず泣いたりもするだろうし、褒められたらほんとうに嬉しく思って、その日のうちはずっとその言葉を思い返してにやついているだろうと思う。でもそれはあくまで感情の問題であって、やはり私そのものを変えるわけではない。もし、それによって何か変わるものがあるとすれば、それは周囲のものであって、私自身ではないのだ。

 ただ、私が馬鹿であろうと、賢人であろうと――醜かろうと、美しかろうと――どれだけ人に否定されようと、賞賛されようと。やはり私が私であることに変わりはなく、私は私でしかないのだ。



 きっとこんなことは、哲学を学んだり、或いはもっと単純に、素直な気持ちで色んな人と接してさえいれば、こんないびつな道を辿らなくとも気づくことが出来たんじゃないかと思う。それでも、私はこのことに気づけたことをほんとうに純粋に、嬉しく思う。
 先月に読んだフローベールの小説の解説に、こんなフローベールの言葉が書いてあった。
「自分の声で歌わなければならない。私の歌はけっしてドラマチックにはならないだろう」……なんてすてきな言葉なのだろう。