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2016/03/11 まあ、おきまりのやつさ

 今私は深夜バスに乗っている。3月6日の夜から4日間の関西旅行の帰りで、3時間と少し前に京都の駅を出て、現在は高速を走っているはずだ。

 ここで書きたいのはこの4日間の旅行のことではなく、旅行を終えてバスに揺られている今の自分のことだ。この4日間のことは今書かずとも、いずれ何かしらの形で書きたいという感情が芽生えるだろうし、きっと私はこのことを早々簡単に忘れたりはしないだろうと思う――とすれば、ここで本当に書かなくちゃいけないのは、こうしたまさになんでもないような時、頭だけを働かせているような時のことだ。

 バスが発車してしばらくの時間は眠っていた。行きと違って帰りは深夜バスの停車地点まで距離があり、そのためにだいぶ慌ててとても疲れていたから、ほんとうは首都圏に入るくらいまでは眠れるだろうと思っていたのだけれど、2時間、3時間もすると目が覚めて、もう眠れるような状態ではなくなっていた。
 深夜バスの中は一切の照明が消されていて、乗降口にもカーテンが敷かれているからほとんど光がなく、見通しも利かない。あまりに真っ暗で何も見えないものだから、私は行きのバスに乗った時「まるで棺桶の中みたいだな」と思ったほどだった。時速何十キロという速度で走る棺桶。もし、ある時バスが何かの事故で横転して、その拍子に私が首の骨でも折って呆気無く死んでしまったとしても、自分はどこで死んだのか、どうして死んでしまったのかさえ判らないだろうな――と、そんなことを考えていると、なんだか馬鹿な気分だった。

 持ってきたウォークマンにイヤホンをセットし、周りに灯りが溢れないように電源を付けて適当な音楽を掛けた。かけたのはジャズで、確かレスター・ヤングだったような気がする。特に大した意味があって選んだわけではなかった。
 テナーサックスの音とバスの駆動音とを感じながらしばらくの間、なんとかもう一度眠れないものかと目を瞑ってじっとしていたけれども、うとうとすることさえなかった。レスター・ヤングのアルバムが一区切りついたところで、不意にこの4日間のことが思い出された。とりわけ、最後の日のこと。今さっきまで一緒にいて、延々と話をしていた彼のことが思い出された。

 私がなけなしの数万円と携帯電話を用意し、普段出さないような気力を振り絞って関西まで来た理由はほとんど彼にあると言ってよかった。他にも幾人かの人達と会って話をしたりハンバーガーやケーキを食べたり人混みを眺めながら一緒に通りを歩いたりしたし、実際それらはとても楽しかったけれど、それでも彼とあれこれ話をしている時間は格別に楽しかったし、濃い時間だった。

 彼と実際に対面して何か話をするというのは初めてだったけれども、ほとんど会っている間は話通しで、私にとっては初めて会う相手のような気はまるでしなかった。常に彼から何かしらの言葉を引き出したいと思ったし、また自分が話す言葉に興味を持ってもらいたいと思った。彼と会って話すのはすごく新鮮だったし、同時に自分が少年だったころ、まだ肩書き上はちゃんとした人間だった頃に戻ったような心持ちでもあった。

 ただ、こうしてすべての出来事が「している」から「した」になり、後はこうしてバスに揺られながら思い返すだけという段になってみると、私はまだ彼のことを知らないし、彼にも私のことを分かってもらえなかっただろうな、というふうに思えた。とりわけ、私が彼に一番言いたかったことは、ちゃんと彼に伝わってないように思えて仕方がなかった。ちゃんと伝えるためには、どう言えばよかったのか。そのことをしばらくぼんやりと考えていて、不意に一冊の小説のことを思い出してから、そうだ、こう言えばよかったのだ、と私は思った。

 それを今ここに書いておく

 私は、ずっと人間に化けたタヌキのような気分でいるんです。こうして貴方を含めて色んな人たちと色んな話を楽しんだけれど、結局のところ、それもタヌキがする人間の真似事でしかないような気がするし、私はいつまで経っても人間に憧れるタヌキでしかないような気がします――話をするのは楽しいし、私と話せてよかったと言ってもらえれば嬉しいけれど、でも、そういう時ほど「ああ、やっぱり私はタヌキでしかなく、彼らや彼女たちの世界には入っていけないのだな」ということを実感させられます。
 これからも人と話をすれば、それなりにその人たちを満足させられるだけの自信はあるけれど、それでも、彼らや彼女たちがほんとうに誰かがそばにいてくれたらな、と思う時、その“誰か”に私が入ることはきっと一生ないだろうな、と思います。

 この文章が思い浮かんだ後、不意に涙が出た。悲しかったからとか、家に帰る安堵感からだとかみたいなことによるものではなくて、欠伸をしたときに出てくるような、無感動な涙だった。それを手の甲で拭い、それから東京に着いた後のこと、これからのことを思った。
 ジンジャー・エールとコーヒーに付け合わせるチョコレート、ハイネケンとギネスビールを買う。家に着いたら即座に湿気った靴下を脱いで脚を丁寧に洗う。それが済んだら家においてあるはずの栄養ドリンクを飲み、それから4,5時間寝直す。起きたら適当に身だしなみを整えて、教えてもらったテキストを買いに行く。帰ってきたらシャワーを浴びて、昨日の間に溜まった脂や汚れを綺麗に落とす。そして、向こうで買った「少年の日の思い出」を読む。それから――



 追伸: この4日間のことは、現時点では書かない。でも、いずれ書きたいと思うようになるだろうと思う。それは3日後かもしれないし、数カ月後ないしは数年後かもしれない。でも、仮に数年後だったとしても、それほど書くのに困ることはないだろうな、となんとなく思う。それだけ思い出深い、楽しい4日間だったから。