読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2015/04/08 誇らしげなため息に変わって

日記

 今日は、雪でしたね。4月に雪が降るのは、だいぶめずらしいのではないかと思います。昨年も大分寒い冬で、2月に驚くほどの雪が降って、連日のように電車の遅延やらバスの運行休止やらで家族が慌ただしくしていたのを覚えていますが、それでも確か、4月に雪が降るなんてことはありませんでしたから。

 先の火曜日に雨がいくらか降るまではずっと暖かい日が続いていて、そうかもう冬とはしばらくさよならしなくちゃならないんだな、なんて残念がっていたので、今日のこの5度を下回る気温は、決して楽でこそなかったものの、すこし嬉しくもありました。

 今日は特段用事もなく、家で過ごすつもりだったのですが、今ひとつしまりのない昼を過ごしてしまった反省に、外に出ることにしました。まだ桜もいくらか残っていることを期待して、カメラも携えて。
 それにしても、冬の、ほんとうに寒い日が続いていた頃は、毎朝ほんとうに起きるのが辛くて、一時間以上も布団にくるまって起きる、起きない、起きる、起きない、と呻いていたり、起きてもすぐに手足の先が氷みたいに冷えきってしまって、これじゃあ何をする気にもなれないと嘆いてばかりいたのに、いざこうして春が来てみると、素直に喜べなくなってしまうんですから、なんだか可笑しいですね。私はいつもこんな調子で、過ぎてしまった時間のことを思い返しては、あの頃はほんとうに素敵だったな、なんて懐かしんでばかりなのです。どんなに今の時間についてけちをつけてみても、一年後、二年後にはきっと涙が出るくらい懐かしい思い出になっているんですから世話がありません。過去を懐かしむのと同じように、今を愛せたら、今まで以上に素敵な思い出が出来るはずなのに――なかなかうまくいかないものです。


 カメラを持ちだしたものの、あまり遠出を出来るような時刻でもなかったので、近所の桜の木のある公園に、散った桜を撮りに行きました。まだいくらか散らずに残っているものもあるのでは、なんて期待をしていたのですが、残念なことに既に殆ど散ってしまっていて、散った跡からは黄緑色の葉が。ただ、期待していたとおり地面には桜の花弁が落ちており、泥で汚れていたもののまだ十分に見られるものでした。
 既にいくらか日が傾いてきていて光量も少なく、レンズも暗いものだったのでシャッタースピードの確保が難しく、F値を下げたりISO感度を上げたりしてなんとかブレが目立たずに撮れたものの、やはり等倍で見るとブレていて、今ひとつの出来でした。それからシャッタースピードを確保するためにF値を下げてしまったためにやや被写界深度が浅く、ぼやぼやしてしまいました。他にもいくから写真は撮りましたが、写真そのものよりも、「明確な撮影対象がない場合、考えなしにボカしを入れても印象の薄い散漫な写真にしかならないし、それならいっそ被写界深度を深めて全景をクッキリ捉えたほうがよっぽど見栄えがいいな」というのを知ることが出来たのが、一番の収穫かもしれません。

 公園を出るころにはもう大分時間が経っていて、手持ちで写真を撮るには難しい時間帯になっていたので、撮るのを諦めて駅の周辺をぶらぶらしていました。駅前の定期券販売所には入学式を終えてまだ日の浅い高校生たちが母親やら友だちやらと一緒にずらっと並んでいて、お互いに話をしたり、販売員の男性に「どれくらい待たなくちゃならないんでしょう」だとか「販売所は何時までやっているんです」なんて聞いたりしていました。列はとても長く、階段を上りながら聞こえた話では最後尾からだと一時間は待つだろう、なんて話でした。
 駅の改札前もちょうど定時退社した大人たちや学校帰りの学生たちで混み合っていて、普段私が利用する時間帯よりもずっとざわざわしていました。そんな様子をさり気なくちらりちらりと眺めたりしながら駅をぐるっと周って、それからのんびり本でも読みたくなったので、いつも行っている喫茶店へ。その日はまだ人から貰ったカップラーメンを食べたのみでお腹も空いていたのですが、こんなふうに寒くて凍えそうな日は、お腹を空かせたままコーヒーを飲んでお腹をぐるぐる言わせるくらいが丁度いいなと思い、ブレンドコーヒーだけ頼んで席に。
 その日はレイモンド・チャンドラーの「高い窓」を。昨日、映画を観に行った際にも持ち寄って読んでいたのですが、あまり集中しないままに読み進めてしまったので、もう一度はじめからめくり始めました。喫茶店は同じように読書をしに来た人や、煙草を吸いに来た人、暖まりに来た人などでいつもより賑わっていて、読書をしている間もときどきに話し声が聞こえて、その会話に耳を澄ませたりしていました。
 170ページほど読み進めたところで20時を回ったので、外に出てまた駅の周りをぶらぶらしはじめました。今度は眼鏡を外して、ヘッドフォンを掛けて音楽を流しながら歩き、駅の改札に戻ったところでしばらく立って人を眺めることにしました。

 ぼやけた街の景色は私が持っている純粋な印象だけの世界で、なんだか不安にもなるけれど、いつもより美しく見えるような気がします――今ほどでないにしても、小学生のころから視力が低く、そんな状態で眼鏡を付けずに過ごしていたので、もしかするとそのころの憧憬と重なるのかもしれません。でも、私がぼんやりと捉えているだけの目の前の景観も、長い時間を経て、大きく変わっていて、同じようには見えてはいてもまったく違うのです。その憧憬と今とを繋ぐ私自身さえ既に時間の経過の中で見えていたもののいくつかが見えなくなっていて、そしてそれはこれからより時間の重みが増していくにつれて、もっと増えていくのだと思います。もしかすると、いくつかが、なんてものではなくて、なにもかも忘れてしまうかも。
 今こうして見えている人びとや景色はほんとうにきれいで美しい。だからこそこんなにもつらいのでしょうね。過去の、或いは現在の時間がつらい人にとっては、むしろ時間の経過は救いになります。苦手だったマラソン大会だって、脇腹を抱えながらでも、歩いてでも、進みさえすればいつか終わりが来て、「よく頑張ったね」と褒めてもらえるのですから。……


 そんなふうなことをずっと考えているうちに、音楽が4曲目、5曲目ほどになっていました。これ以上立っているのもつらくなってきましたし、21時近くなってきたので、家に帰ることにしました。眼鏡を外したまま、音楽を聴きながらゆっくりと。


 冬から春に変わる時期になると、沢山考え事をします。とくに過去のこと、時間の経過のことについて考えます。明日からは順調に気温が上がっていって、手足の冷えを感じることも少なくなってくるんでしょうね。