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2015/12/20 疲れきってしまわないようにすること

日記

 私は18歳の誕生日を迎えた時から、私の人生はもうどうにもならないのだ、ということをはっきりと自覚していた。
 それは、くじで7億円を当てたとか、とびきり綺麗ですてきな女の子と交際できることになったとか、金持ちの家の召使として好待遇で雇ってもらえるとか、30年以上の無給の執筆生活が実を結んで死ぬまで毎月100ドルの俸給を約束されたとか、難しい試験に合格して神学校に入れることになったとか、そういうことが起こったとしても、決して取り返すことは出来ない。もちろん、もしそんなことが起こったとしたらきっと私は心から嬉しく思って、こらえきれずに大声で笑ったり、泣いたりするだろうと思う。でも、これからどんな生活が待っているのだろうとかって思いを馳せるのにも一段落がついたとき、私は改めてこう考えるだろう――『でもやっぱり、もうどうしようもないんだ。なにもかも終わってしまったんだ』って。

 18になってからいちばん最初の年明け、いちばん私が死に近付いたあの1月から3月までの日々を乗り越えてからもなお、私はほとんどずっと、毎日のように死ぬことについて考えている。死ぬこと、それ自体はそんなに恐ろしくない。ただ肉体に宿っている意識を維持できなくなって、自己が永遠に亡くなるだけだから。それは地球上にいる生き物が死ぬ時となんら変わらない、きわめて自然な出来事だし、とくに怖いともつらいとも思わない。

 私がほんとうにつらいのは、私が死んだ後でも世界に自分が死んだのだという証拠がはっきりと残ってしまうことだ。
 よくある『自分が死んだって誰も悲しみはしないし、何の影響もないんだ』なんていうのは、生への執着を捨てきれない、卑屈な自己愛の持ち主の言い草だと私は思う。そういう連中はきっと、ただ生に固執する醜さを死ということばで誤魔化しているだけなのだ(と、ここまで私が言うのは、18歳よりもっと私が若かったころ――心ばかりが先行してろくにものごとを知らなかったころ――たびたびこんなことを日記に書いていたからだ。その日記が今も記録に残っているのかは、知らないけれど)
 死というのは、爆発みたいなものだ。爆発は、それが起こるだけで周囲に影響を及ぼす。死も同じだ。そして人間というのは、ほかの人間に寄りかかって生きていくことしか出来ない。常に身近な場所にほかの誰かがいなくては生を持続させることさえままならない生き物だ。そういう性質を持っている人間という生き物が死という形で爆発を起こした時には、必ず自分が関わってきた、寄りかかってきた人間に傷を作ることになる。つまりは、人間が社会的生物として生活している以上、必ず影響を残すことになる。

 私はそれがつらくてたまらない。私はほとんどなにも持っていなくて、生きているだけでも周囲に傷を作っているのに、死んだ時にさえ大きな傷を作らせることになるのだから。もし自分が死ぬと同時に自分が持っているものや関わった人々の脳から自分という人間の記憶が消えて最初からいなかったことになるなら、どんなに楽に死ねるだろう?


 きっと私はこれからも死ぬことについて考え続けながら、生きていくだろうと思う。生きていればもしかするとこれから先に、何か特別なことが起こるかもしれない――最初に書いたような、夢みたいなことが。でも、その時が来たとしてもやはり私はこう思うだろうし、仮にそんなふうに考えなくてもいい時、忘れていいような時が来たとしても、忘れずにいなくちゃいけない――『もうどうしようもないんだ。なにもかも終わってしまったんだ』ってことを。この言葉こそが、これまでの私の人生のすべてだったのだから。