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2015/10/12 うずくまったままいつまでも揺られ続けた

 今日はこれまでのような、何をした、という文章ではなくて、昔のように考えたことなんかを書いてみようと思います。

 先日、私が唯一定期的に連絡を取り合っている知り合いがあるSNSを始めて、その彼のユーザーページから芋づる式に学生時代のかつての同級生たちのページが発見されて、この何日か発掘されたページのアーカイブを見ていました。
 最初は、人の生活をのぞき見出来る隠し穴を見つけたような、ある種の意地悪な高揚感があったのですけれど、それを見ている内に徐々に気が重くなってしまっていて、気が付いたらショックで身体が思うように動かせずにほとんど寝通しになってしまうくらい滅入ってしまっていました。

 というのも、彼らの生活が、私の見ている世界とはあまりに違っていたからです。
 どの人も顔つきがすっかり変わっているばかりでなく、着ている服や髪型までなにもかもが変わっていて、数十センチの距離ですれ違っても私は彼らに気付けないだろうというくらいに私が見ていた彼らとは違っていました。それに、彼らはいつも男性でも女性でも、誰かしらの知り合いと一緒に映っていて、それも、とても楽しそうにしているのでした。そこに映る誰も彼もが私とは違う顔つきで、まるで違う世代、違う世界の人たちを見ているかのように思えました。

 私の生きている世界は、彼らの生きている世界とはまるで違うのだな、とその時はっきりと気付かされました。髪を染めることさえ、カメラの前でピースサインを作ることさえ、大勢の人と一緒に並ぶことさえ、私にはきっと出来ないだろうなと思います。彼らは私とはまったく別のものを見ていて、私の世界が存在することさえほとんど興味を持っていないように思えます。
 このことに付け足してショックだったのは、私と似た世界に生きていると思っていた同級生たちさえ、実は彼らのような世界に生きているのだと分かってしまったことです。学生時代、同級生たちから疎まれていた子さえ今は色んな友だちや知り合いに囲まれていて、私が手にし得ない物を持って生きているのです。

 私は学生時代に、個人的に疎まれることはあっても大それた嫌がらせを受けたこともありませんでしたし、はっきりと拒否反応を示されたこともなかったですけれど、同時に誰かに受け容れられることもなかったように思います。一見私が上手く会話をこなしているように見えても実際的な、生の会話とはかなりかけ離れていて、そのことを周りも少なからず感じていたのかも知れません。私からする会話も彼らから来る会話もどこか形式ばっていて余所余所しく、私が憧れていたような対人関係とは程遠いものでした。これは実は、嫌われること以上に私と彼らとの間に大きな隔たりを作っていて、きっと私はそのことに気づかないまま歳を重ね、隔たりを未だに抱えたまま生きているのです。

 こうして、どの人ともろくに関わり合えないまま学生の世界から離れて、気が付いたら一人きりの世界の中にいました。でも、本当は誰よりも友達という存在に憧れていたのだろうな、と思います。学生時代は友達を得たい欲求とそれが成されない現実の乖離を防ぐために半ばひねくれたような形で「友達なんていらない」と言い聞かせていたりしたけれども、それも結局ただの強がりでしかなかったのでしょうね。学生時代の同級生たちはみんな、名前までは覚えていなくとも、苗字と顔だけは今でも思い浮かべることが出来ますから、きっとそれくらい彼らに執着していたのだと思います。今じゃもう、ほとんどの人が私の顔も、名前も覚えていないのに。

 これからも私は表面上の関係を円満にこなすことは出来ても、きっと彼らの世界では生きていけない。そして彼らの世界で生きられないことが分かってもなお、これからも私はそれに憧れつづけるだろうし、このことをコンプレックスとして抱えながら、また歳を重ねていくのでしょうね。