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2014/10/29 フランソワ・トリュフォー映画祭の記録「大人は判ってくれない」 

 先週に引き続き、角川シネマ有楽町にて開催されているフランソワ・トリュフォー映画祭に行って来ました。今回観て来たのは彼の代表作にして初の長編作品「大人は判ってくれない」です。

 前回と同じく、感想は軽く、感覚的に。それから今回は映画以外にもあちこちぶらぶらして来たので、そのことも少しだけ書こうかと思います。
 今回は前回よりも上映時間が早い(12時40分上映)ということで、9時30分に家を出て、1時間後到着次第そくチケットを買って、それから暇をつぶす、という形で行きました。前回混雑していたとはいえ、上映直前でもチケットは買えたから、今回はもっといい席をとれるだろう、なんて期待をしていたのですが、彼の代表作であるこの「大人は判ってくれない」は、「華氏451」とは比べ物にならないほど高く、上映二時間前にも関わらず中段席は満杯で、遠方に少し空きがあるばかりでした(その上、上映直前には全ての席が埋まっていて、チケットを取れない人も多く見られました)


(写真を撮るのを忘れていて二口食べてから気づきました)

朝食もたいして摂れていなかったので、チケットを取った後は即座に喫茶店で朝食を取りました。場所は角川シネマ有楽町のあるビックカメラビルから東京メトロ有楽町駅を挟んだところにある東京交通会館の「阿蘇」という喫茶店で、席はカウンターのみのこじんまりとした個人経営の喫茶店です。
 昼までまだ時間があったため客も私以外にひとり、ふたりほどでした。まだぎりぎりモーニングをやっている、ということで即座にモーニングを頼んで、ゆったり待っていました。コーヒー付きで350円という喫茶チェーンでもなかなか無い低価格だったので、それほど期待していなかったのですが、いざ出てくると思いの外しっかりしたもので、びっくりさせられました。

 その後は一時間ほどカメラ片手に日比谷公園や皇居周辺を散策してまわって時間を潰しました。下手ながらそれなりに写真も撮れたので、これはまた別の機会に記事にしようかと思います。



 さて、それでは本題の「大人は判ってくれない」について。

大人は判ってくれない(Les Quatre Cents Coups)」

監督・脚本: フランソワ・トリュフォー
主演: ジャン=ピエール・レオ

 少年アントワーヌ・ドワネルの生活は苦痛そのものだった。血縁関係を持たない父や自身の意に反してドワネルを産んだ母とは微妙な関係で居場所がなく、学校へ行けば意地悪な教師たちの罵言ばかり。文学や映画への興味を示すも、その感性は歪な態度で迎えられ、そうした生活への反発として不良行為を繰り返す。
父親の会社のタイプライターを質屋に入れて金を得ようとするも失敗し、窃盗少年としてとうとう感化院に入所させられてしまう。

 既に書いたとおり、フランソワ・トリュフォーの代表的作品にして、長編映画初挑戦作品です。
 内容としては、明確なシナリオらしいシナリオはなく、漠然とアントワーヌ・ドワネル少年の生活を切り取っていく、というもので、趣向としては同じくフランスの文学作品、ジュール・ルナールの「にんじん」に近いものを感じます。この点から考えても、この映画についてシナリオを軸に解釈することで全体を掌握しよう、というやり口は無粋でしょうから、映像や描写の面から私なりの解釈や感想を書いていこうかと思います。

 主人公のアントワーヌ・ドワネル少年は、勉強が不得意でなく不良行為の常習犯である、といった不良少年像にぴったりと当てはまるのですが、一概に彼をこうした呼び方でまとめてしまうのは不適当に思われます。というのも彼の不良行為の起因は、大人たちへの反抗心ではなく、自身が持つ熾烈な自立したいという欲求、自分が顧みられないことへの失望にあるからです。ドワネル少年の親子関係や教師との関係も、微妙であることは間違いないのですが、彼は反抗したり、暴力的手段に則って自分の考えを行使しようしたりは、全くしません。そればかりか基本的には従順であり、自身の立ち位置をよく理解している――そしてまた、これこそが彼の失望の原因であるように思われます。
 これは、ドワネル少年が学校をサボタージュして街を歩いている時に、不意に母の不倫現場を目撃してしまった時の子どもらしい慌てぶり、こっそり父母の口論や自分への悪口をじっと耳にしている時の表情などからも伺えるのではないかと思います。ドワネル少年は、ひそかに大人たちの考えていること、自分への気持ちを、具体的な表情に表さないながらも敏感に感じ取っており、またそれらが不良行為の精神的下敷きとなっているのです。そういう意味では、彼の自立欲求は、大人への無理解に対する失望の裏返しであることも、同時に分かります。

 もちろん、この映画の魅力はドワネル少年のいたいけな子供心を味わうだけの映画ではありません。親友ルネの手助けを借りて家出し、街を遊びまわったり、泥棒を行うことで子どもなりの「大人になるとは」「またそのためにどのようにすればよいか」といった問いへの答えを観ることも出来ます。
 言ってしまえば、彼らにとっての不良行為とは「大人になるため」の試行錯誤の一つであったに過ぎません。自分の手でお金や食べ物を得なくてはならない、という考えから窃盗に走るのだし、大人が吸っているから自分たちも煙草を吸うのです。こういった行動は非常に短絡的ではありますが、非常に分かりやすく、瑞々しい感性が感じられる部分でもあります。だからこそ、これを一口に“不良行為”という大人目線の表現で語るのは、私には不適当であるように思われるのです。(また、これらを踏まえた上で、あらためて「大人は判ってくれない」の映像のつなぎ方を見ると、いずれも家庭での不和→家出→学校での不和→窃盗行為→感化院→…といった風に、非常に少年の行動規範の分かりやすい、明快な構成になっていることが分かると思います)

 感化院から海の描写も、ドワネル少年がまだ見たことのない海という場所を象徴化している、と考えれば、それほど難解ではありません。そして、だからこそ映像描写が際立つ部分でもあります。海を背景に神妙な面持ちのドワネル少年……なんとも秀逸でした。

 (もちろん、これらは私の個人的な解釈ではあるのですが)こうして観ていくと、「大人は判ってくれない」という日本独自の題名に込められた愚直とも言えるほどベタなメッセージがより際立っており、このワンフレーズがなんとも沁みます。

 フランソワ・トリュフォーのセンスが存分に発揮された映像描写が、ジャン=ピエール・レオーの瑞々しい演技が絶妙に調和した、ヌーヴェルヴァーグの傑作として挙げるに相応しい、良い映画でした。

 こちらも、後々感想記事としてちゃんと公開できればと思います