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H.G.ウェルズ/スティーヴン・スピルバーグ「宇宙戦争(The War of the Worlds)」

H.G.ウェルズ宇宙戦争(The War of the Worlds)」

 或る日のイングランドの一地方に円筒型の物体が飛来、衝突した。
今までにない出来事に楽観的な興味関心から群がる人々だったが、ひとつの事件によって大きく自体は変容し始めたーー円筒の中から、たこのような形をした醜悪極まりない火星人が現れ、三本足の戦闘機械を操作し地球人に向けて熱線を放射し出したのだ!
恐るべき機械文明と知能を持つ火星人に、地球人類の武器はおよそ太刀打ちできるものではなかった。成すすべなく逃げ惑う人類に、未来はあるのだろうか。

 ジュール・ヴェルヌと並びSFの父と称呼されるH.G.ウェルズの代表作のひとつにして、現在もなお地球侵略SFの古典的名作として知られる作品について。

 この作品で最初に語るべきは、その地球侵略者たる火星人のデザインだろう。
 今日における火星人および異星人全般のステレオタイプ的造形として語られる「知能蓄積や高度な思考のため脳が肥大し、逆に手足などの運動器官は著しく退化・萎縮した、醜悪極まりない姿をしており、様相はタコに酷似している」といった造形のほとんどは、この「宇宙戦争」によるものである。その他にも、光線・熱線を武器とし、高度な機械兵器を操る事ができる、といった侵略物語も、これによるものである。今作は既に一世紀以上前の作品であり、SF小説読みを除いては、この作品を読んでいるものはおそらくほとんどいないだろうと思われるが、この作品が大衆へ及ぼした影響は多大なるものであり、現在の地球侵略SFストーリーの事実上の標準として、本国イギリスはもちろんのこと、日本人にもよく親しまれている。

 しかしながら、そうした大衆に根付いた娯楽色の強い通俗小説として語られるべきものかというと、それは大きな間違いである。
ジュール・ヴェルヌの作品群が創造性と科学進歩の夢に身を任せた純然たる空想・冒険ものであるのに対して、H.G.ウェルズは政治的な主張や、彼自身が持つ思想を色濃く反映させている作品が多い。本作でもそうした要素は散見される。本格的な火星人による地球侵略が始まる以前には、飛来した円筒に群がる人々や正確な情報伝達の出来ない煽るだけの情報メディアやそれに踊らされる聴衆を描き出し、未知の危険に対して愚かなほど楽観的な人々を厳しく批判している。加えて、火星人による本格的な侵略が始まって以降も楽観視を続け、醜悪な外見から低い知能しか持ち得ないだろうという短絡思考から、さしたる問題もないだろう、というような体でいる(むろん、実際には全くの逆である)人々の傲慢さも、痛烈な批判を浴びせている。こうした場面場面から見えるウェルズの批判姿勢は、単純に異星人に対するもののみではなく、未知なるもの・エイリアン(ほかの国の人々)に対しても言えることだろう。この「宇宙戦争」が発表された1898年は、ちょうど18世紀初頭に産業革命で大躍進を遂げたイギリスが、ドイツを始めとする他国に追いつかれつつあった時代であり、この異星人という仮想敵は、他国による侵略という現実問題を示唆するものでもあったとする見方も可能だろうと思う。

 そして、この宇宙戦争と題された壮大な地球侵略の物語の終末もまた、非常に意図を感じさせるものである。
火星人の生態と彼らの狙いは、主人公という観測者によって徐々に明らかにされていくが、解決策らしいものはなく、依然として地球人類は虐げられるばかりであり、最早人類の未来は潰えた……、そう確信させられたところで、物語は突然に終わりを告げる。人類が繁栄するまでの間、優れた環境を作るべく闘争を続けた目に見えない存在、地球に数えきれないほど在来する微生物や細菌によってあっけなく火星人が死滅してしまう、というわけである。これは、火星には大量の微生物が生存できるほどの環境がないことによるものであるが、それにしても、皮肉めいたものを感じさせる。地球侵略を食い止めたのは地球の支配者たる人類ではなく、目には見えない幾多もの微細なものたちであり、また広い見方をすれば、地球という惑星、生命体に救われたとも言ってよい。これらもまた、(19世紀末の)現代文明への批判だろうと言ってよいだろう。

これらのほか、当時のH.G.ウェルズが今作を発表するまでの英国の社会背景などを踏まえての解説は、
創元SF文庫版「宇宙戦争」の邦訳を手掛けた中村融氏が、丁寧に解説されているので、ぜひこちらを参考にされたい。

ふたつの世界の戦い――『宇宙戦争』をめぐって
http://www.webmysteries.jp/sf/nakamura0505.html


 さて、そうした小説「宇宙戦争」が持つ価値を踏まえたうえで、スティーブン・スピルバーグが監督を努め、一億ドル超の制作費を投じて制作された、映画「宇宙戦争(2005)」について少しだけ書いてみたいと思う。

宇宙戦争(The War of the Worlds)」

監督 スティーブン・スピルバーグ
音楽 ジョン・ウィリアムズ
制作 キャスリーン・ケネディ
出演 トム・クルーズダコタ・ファニング

 湾岸の肉体労働者として働くレイは、離婚した妻との二人の子供との関係を改善出来ないまま、しばらくの日々を過ごしていた。そんなある日、自宅付近のある地点に数十回の落雷が発生しているところを目撃した。何事かと事件現場に向かったレイは、地面から巨大な三本足の兵器(トライポッド)を発見する。
 突如として人間を強力な光線で攻撃し始めた殺戮兵器に、人々はなすすべもなく逃げ惑う。レイとその子供たちは運良く事件発生地からの避難に成功したが、そうした安寧もそう長くは持たなかった。各地に出没し人間を攻撃していく殺戮兵器トライポッドに、人類に太刀打ちできる術はなく、最早人類の未来は潰えたかに思えた……

 これまでにも数多くのSF映画を制作し、評価・興行収入ともに多大なる成果を挙げてきた名監督スティーブン・スピルバーグが一億ドル超の資金を投じた作品である。その他の製作陣も、長年スピルバーグとタッグを組み映画音楽を担当してきたジョン・ウィリアムズに、同じくロバート・ゼメキスなどのSF名匠たちの監督作品に携わってきたキャスリーン・ケネディ、出演も大物俳優であるトム・クルーズと、質実ともに非常に力の入った作品だと言える。

 しかしながら、これまでに書いたH.G.ウェルズが作品に込めた主張、文明批判を踏まえたうえで、純粋な「宇宙戦争」の映画化として見てみると、どうだろうか。
 まず目につくのは、原作とは異なって展開される主人公の、子どもたちへの愛の物語である。原作の主人公がシンプルに現体制の批判者であり、侵略者火星人の観測者として位置づけられ、常に近い位置で火星人の生態、意図を探っていく立場にあるのに対して、こちらの主人公レイは、非常に微妙な存在である。侵略者たちを分析しようと試みたり、観測者的立場として火星人の生態を近い位置で見ていわけでもない。また同時進行で展開する子どもたちとの物語も、無理解な行動が目立ち、どうにも鼻につくところがある。これはキャラクターとしての設定はもちろん、トム・クルーズという役者が放つ印象の強さにもある。
 加えて、原作が持つ社会批判はことごとく無くなっているのは非常に残念なところだ。未知なる危険に遭遇したときの人々のおろかしい行動の数々に対する冷静な視線はこの映画にはなく、単なるパニック要素の一つに成り下がってしまっている。むろん、コンピュータグラフィックスを用いた優れた映像に関しては、公開して十年近く経過した現在でもさして見劣りしない出来になっており、ウェルズが指し示したタコ型の醜悪な外見を持つ火星人像や、三本足の殺戮兵器「トライポッド」の再現も、現代的なデザインに落とし込めながらも、上手く原作を再現出来ている。が、未知なる危険の下で真相が暴かれていく様や、こうした環境下で露呈する人間の内的なものに対しての描写はどれも原作と比べるときわめて乏しく、その優れた映像美ばかりが際立ち、スペクタクル映画的になってしまっている。そして、そのスペクタクル的な見せ方が、人類の手によってではなく、地球に在来する細菌によって救われるというエンディングを非常に陳腐に見せてしまっている。これは、原作を知らない人であれば、「制作費が足りなくなってこんな尻すぼみなエンディングにしたんじゃないか?」なんてことを考えてしまってもおかしくはない。それでなくとも、これだけ圧倒的な映像美を見せつけられておいて、こんなあっさりしたエンディングでは肩透かしを食らったような感じがする人も少なくないだろう。巨額の制作費を投じてリッチな映像を作りこんだ結果、シナリオと映像の落差が強くなってしまっているのだ。

 とは言え、スティーブン・スピルバーグらしい見せ方は今作でも健在であり、現代アメリカ人の暴力の象徴となっている9.11事件を下敷きに航空機の落下事故シーンや人々の混乱シーンなどを盛り込んだあたりは、一つのアレンジとして評価しなくてはならないところだろう。
 スティーブン・スピルバーグ関連作品ではちょくちょく出てくる日本ネタもある。「日本の大阪ではトライポッドを2,3機破壊したらしいぞ」と、避難民が話すシーンがあったり、日本のメディア作品が小ネタとして仕込まれていたりする。言うまでもなく、これは原作にはない要素である。また、今作は個人的にはあまり褒められない、褒めたくない出来になっているが、この宇宙戦争を発端として、侵略者として描かれるようになってしまっていた異星人を、「E.T」で一転させたスティーブン・スピルバーグは、異星人SFにおける一人の功労者として評価できる、とハヤカワSF文庫の役者解説にて語られており、今作によって彼のSF映画監督としての評価が揺らぐことはないと言えるだろう。また、そうした異星人との豊かな触れ合いを軸にしてきたスティーブン・スピルバーグ自身が、こうした古典的な地球侵略SFに挑戦したということ、それ自体に意義があるとの見方も出来る。作品の評価が二分している点は差し置いても、スティーブン・スピルバーグ作品を語る上で欠かせない作品であることは間違いないだろう。