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スタンリー・キューブリック/アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」(2001: A space odyssey)

映画「2001年宇宙の旅」(2001: A space odyssey)


監督: スタンリー・キューブリック
脚本: スタンリー・キューブリックアーサー・C・クラーク(共同脚本)
出演: キア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ダグラス・レイン

 月開拓の進んだ近未来、月のクレーターの中で、謎の物体”モノリス”が発見された。400万年前に設置されたらしい正体不明の物体からは、木星に向けて強力な電波が放たれており、そこに何か未知なるものがあるかの如く指し示されていた。
 十八か月後、木製探査へと乗り出した宇宙船ディスカバリー号では、人工知能HAL9000とデヴィッド・ボウマン船長との間で木製探査の真相を巡り、静かなる闘争が始まろうとしていた……。

現在のSF映画史においても絶大なる影響力を残した「2001年宇宙の旅」を、アーサー・C・クラークの小説版、キューブリックの映像作品をそれぞれ合わせて鑑賞。

 自分の場合はハヤカワSF文庫から刊行されている小説版から先に入り、その後で映画を鑑賞した(実際の時系列は、映画が公開されてから数ヶ月のちに小説が刊行されている)のだが、結果的にはこれが非常に良かったな、というのが両作品を見終えて思ったこと。
 2001年—に関して言えば、モノリスの誕生時期やディスカバリー号の宇宙探査先などの点に於いていくらかの設定の相違が見られるが、シナリオの大筋や、その世界観に込められた主張性は同一であり、表現方法は違えどその完成度はいずれも極めて高い。ただし、クラークの科学的見識によって論理的説明の成された小説版に対して、映画作品の世界観と言うのは非常に難解である。これは、極端な映像主義者で、今作で感覚に訴えるメッセージを発したいと考えたキューブリックによって、説明の一切合切を排除されてしまったためである。謎の物体“モノリス”についても、小説では小数点何単位と追っても誤差が無いほどに正確な1:4:9の比から成る四方体で、少なくとも300万年以上前に設置されたものである、またこれらは人類の文明をはるかに超越した地球外生命体によってつくられたものであることはほぼ間違いなく、モノリスから発される電波も、それに関連付けられたものであろう……と言ったようなことが丁寧に記されているのだが、映画ではこうした説明は全くと言っていいほどなされない。このために、視聴者は漠々としたその宇宙空間に存在する奇異なあれこれの真意を、手探りで求めていかなくてならないと同時に、その前衛的な映像を、神経を研ぎ澄ませながら見つめていかなければならない。

 日本での公開当時、日本のSF作家たちの多くがこの作品に辛辣な評価を下したのも無理からぬ話で、現代文明を基調として簡素かつ明快に空想科学世界を描き出してきた日本のSF作家たちにとって、この映像だけがものを言う作品は、きわめて受け入れがたいものに感じられただろう。SF作家の巨匠、クラークによる小説版が刊行され、作品の世界観が明確に提示され、卓越した映像センスが言語を伴った真実味を帯びるようになった現在では既にそうした評価は裏返されてはいるが、キューブリックの映像センスや価値観がSF小説とは異なる次元にあることは間違いない。

 しかしながら、小説を読んで一通りのシナリオと世界観を踏襲すれば、非常に感覚的好奇心をそそられる映画なのではないか、とも私は思う。
物語の始まりにシュトラウス作曲の「ツゥアラトゥストラはかく語りき」をバックにでかでかと映し出される惑星の映像や、「青く美しきドナウ」と共に映し出される月基地着陸のシーンで、そのCGとは思えぬリアリティ溢れる映像の迫力に、度肝を抜かれない人は恐らく少ないだろう。また、数々のSF映画作品の中でもとてつもなく先鋭的なラスト十数分間に圧倒され、わけも分からず涙を流してしまったのはきっと私だけではないことだろう。
 キューブリック自身が「この映画の意図するところは神である」と放ったとおり、超越的な世界、超越的な存在について示唆し、それを映像と言うかたちで容赦なくぶちまけられている。数多のSF映画作品の中においても、宇宙という絶望的なほどに広い世界が持つ神秘性を映像におさめる、という点では、これほどまでに上手くやった作品は無いと言えるだろう。


 この映画は、宇宙空間と言うまだ見ぬ世界を旅する人類の冒険譚であると同時に、それまでに築き上げた観念の一切を超越させんとする、精神世界を描いた一つの芸術でもある。この45、6年もの間絶大な影響を与え、またこれからも衰えることのない輝きを放ってくれる超大作となってくれるに違いない。