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アントニイ・バージェス「時計じかけのオレンジ」、映画作品も合わせて

映画「時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)」
原作: アントニイ・バージェス
監督・脚本: スタンリー・キューブリック
出演: マルコム・マクダウェル

 整然とした管理社会が築かれた近未来のイギリス・ロンドン。とある一都市に住まうアレクサンダー・デラージ(アレックス)は、3人の“ドルーグ(仲間)”たちと不良グループを結成し、暴力・強姦・騙りなど、悪事のかぎりを尽くしていた。 が、ある日、諍いがもとでドルーグに裏切られ、暴行事件の容疑者として逮捕・収監されてしまう。言い渡された十四年の刑期が耐え難くなったアレックスは、釈放と引き換えに新政府が開発した“ルドビコ心理療法”を受けることを選んだ。当初は二週間の入院での釈放に嬉々としていたアレックスだったが、その精神的苦痛を伴う心理実験によって大きく歪められてしまった。そして、二週間の治療を終えた彼の身体には、恐るべき変化が起こっていた……

ハヤカワepi文庫から刊行されている「時計じかけのオレンジ 完全版」を読了後、満を持して映画作品を鑑賞。

 原作との比較から始めると、映画「時計じかけのオレンジ」では、映像化に際していくらかの変更点と、シナリオ解釈に差が出ている。手近なところで言えば、アレックスとドルーグ(仲間)たちの暴力表現の緩和、だろうか。上映時間の制約のため、アレックスの暴力の対象として描かれる人はいくらか削られており、また、その暴力の内容も、幾分か柔らかいものになっている。原作でアレックスが睡眠を誘発させ強姦したデボチカ(少女)二人は、映画作品ではアレックスがレコードショップで呼び止めたのち、合意の上で交渉に及んだことになっている。また、それに加えて、語りべであるアレックスの喋り口も、危なげな一言の大体は削られている。目立ったところだと、女性を撲殺してしまった事実が発覚した際、「おれは、ちょっとばかりあのばあさんを強くなぐり過ぎたかもしれねえな。ま、ま、これで何もかもおしまいだ。(ハヤカワepi文庫 116頁)」など。犯罪への反省を見せず反って煽り立てるような調子で語るさまは、アレックスへの感情移入を阻害し、あわれな境遇となった事に対する同情心を誘えない、と判断したからかもしれない。このほかにも、ドルーグたちの行く末の描写や、ルドビコ心理療法後のアレックスの態度など、シナリオの大筋こそ変わらないものの、多くの変更点が認められる。
 それから、その上で議論となっている点が一つあり、それは、原作小説の最終章の削除である。超暴力性に溺れる青年アレックスの終焉、新しい普遍的な価値観へと回帰していく、それまでとはまた別の側面を持った主人公が、最終章で描かれており、少々ご都合主義的な感もないとは言い切れないが、著者アントニイ・バージェスはこの最終章はなくてはならないものであると主張している。これらが映画作品ではまったく削除されており、その片燐がほんのすこし匂うか、という程度になっている。こうしたこともあり、バージェスをはじめとしてこの最終章の有無でたびたび論争となっている。


 それでは、このあたりで個人的な感想を。
 行き過ぎた全体主義への皮肉を交えながら成立しているディストピアSFであるが、描かれている近未来世界の姿は、他のSF作品に見られるような現代文明を超越した科学技術や見識を得たいかにもな未来都市ではなく、あくまでも工業一体化の進んだ現代の延長線上であり、バージェスの文章から得られる都市像は、それほど現代と違わない素朴さを基調としている。映画作品ではそこにキューブリック独自の暴力に対する美意識から大胆な映像的アレンジが行われており、その近未来の景観は異端的な色合いを見せている。これは、原作の持つ暴力性を一つの美的概念として昇華させた大きな要因と言ってよいだろうと私は思う。ブラックコメディとしての時計じかけのオレンジはより甘さと苦さを増し、暴力そのもの以外からもあらゆる匂いを発している。主人公アレックスが愛してやまないクラシックを原作以上に多分に盛り込んだ映像演出もこの上なく秀逸で、アレックスと言う人間像をよりきつく照らし出すことに成功している。その異端とも言えるシナリオをかかえながらもバージェス作品群のひとつに過ぎなかった作品がこれほどまで注目され、且つ又評価されているのは、このキューブリックの優れたアレンジ能力と、徹底的な映像へのこだわりによるところがきわめて大きいのだろう。
 しかしながら、「暴力と美」という一点を追及するがあまりに、原作が持つ語りべの喋り口や、若者と暴力性、そして成熟するにつれて生まれる普遍的な価値観への理解といった課題がいくらか損なわれている気がしないでもない。特に私は原作に先に触れたこともあってか、原作への思い入れが深い。「時計じかけのオレンジ」というタイトルのもととなっているミスター・フランク「時計じかけのオレンジ」との出会い、そして治療の本質を知ったとき不意に出た、「これじゃ、まるで時計じかけのオレンジだ!」のひとことがなかったのは非常に残念だったし、重要な思想の提唱者となる教誨師のあつかいもいささかこじんまりしているように感じられた。また、その陳腐な終わり方を嫌ってのことだと理解はしていても、若者特有の暴力衝動を超え、ルドビコ心理療法を超え、有権者たちとの政治闘争を超え、一つの安寧を手に入れたアレックスの姿は、原作でもとても印象的で、こうした要素を排さずにいたらどうなったか?という興味は尽きない。
同じシナリオを材料にしながらも、決して同列に語ることは出来ない、それぞれに独特の色とこだわりをみる事の出来る作品であったな、というのが最終的な私見だ。


「フル・メタル・ジャケット」「2001年宇宙の旅」「シャイニング」……映画史に燦然と輝く幾多もの大傑作を生みだしたキューブリック作品の中に於いても、これほどまで強烈なものを残していった作品は少ないだろう。
原作からアーティスティックなアレンジ演出の加えられたキューブリックならではの映像美とバージェスが切り出した若年世代の持つ超暴力性との融合は圧巻で、その課題への好き嫌いこそあれど、あらゆる人に圧倒的なものを残してくれる強烈な作品であることは、間違いないだろう。