読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ジャン・ジュネ「泥棒日記」(新潮文庫刊)

ジャン・ジュネ「泥棒日記」   2014.04.04

言語の力によって現実世界の価値をことごとく転倒させ、幻想と夢魔のイメージで描き出される壮麗な倒錯の世界。 ――裏切り、盗み、乞食、男色。父なし子として生れ、母にも捨てられ、泥棒をしながらヨーロッパ各地を放浪し、前半生のほとんどを牢獄におくったジュネ。 終身禁固となるところをサルトルらの運動によって特赦を受けた怪物作家の、もっとも自伝的な色彩の濃い代表作(新潮文庫あらすじより引用)

このジャン・ジュネという作家が、フランスの数ある文筆家のなかでもきわめて稀な存在であることは、上記のあらすじにさえ滲み出ている事はもはや語るに落ちる。が、この無知蒙昧の自身の為に改めて整理をつけたいと思う。

 これまでの耽美派の文学作品群に於いても、彼、ジャン・ジュネの精神と、そこから描き出される世界というのが、それまでに見られなかった視点から描かれていることが分かる。先ずそれまでの作家たちの作品と決定的に異なるのは、その背徳の世界に密着した、ほぼゼロといっていい地点から観察されたこの上なく生々しく濃密な、倒錯しきった精神世界を描いているという点。
主人公ジャン(もとい、ジャン・ジュネ自身)はぬすびとであり、物乞いであり、むきだしの同性愛者である。犯罪を共にする片手男スティリターノ、従順な少年リュシアン、犯罪者でありながらどこか実直な面を見せるアルマンをはじめとした数々の男性に恋慕の情をかかえ、同じベッドで夜を共にすることを夢想している。またそうした愛への切望と、生をつなぐ目的から、裏切りと犯罪にひたすら浸かってゆく。本来美の中でみとめられるべき世界(女性、自然、讃美などといったもの)はそこにはなく、ジャン・ジュネの体験談がすべてを占めている。

加えて興味深いのは、徹底してその幾多の犯罪、幾多の男色、幾多の裏切りを独自の美の解釈によって強烈な色添えをする一方で、彼自身が見聞きした男たちの発言は、ほかでもない、男たち自身のの声によって描かれていることだ。

「年上の連中の便所とおれたちの便所の仕切りの向う側で、彼奴が苦しそうに呻くのが聞こえるんだ。ロージェはおれよりきれいなもんで、すげえ兄貴連が皆ロージェの中で思う存分ぶっ放すんだ。おれはただ黙って聞いてるより仕方がなかった」 ――110ページ

おれの両つのたまさ。おれのきんたま。女たちは歩くとき、奴らのおっぱいをこれ見よがしに突き出して堂々と進みやがる。奴らはおっぱいを見せびらかして練り歩くのだ。女たちはな。おれは、だ、おれは、おれのきんたまを差出して、でんと前に押出して、進む権利があるのさ。それだけじゃねえ、おれの両つのたまはお盆に乗っけて見せる権利だってある。 ――212ページ

彼らの言葉は品の無い言葉に満ち満ちており、そこに耽美のための虚飾はいっさい見られない。そうしたそれまでの耽美の世界とは隔絶されたジャン・ジュネの背徳の視線と観念が、新しい美意識空間という穴へと読者を突き落としているのだ。


彼の人生の半分以上を占めた、社会と言う社会から隔離された闇の世界は、当時のみならず、今世紀に於いてもなお異端的である。
こうした人生を歩んできた彼が、ジャン・コクトーサルトルからこの上ない評価を受けるまでの文筆業をいかにして成し遂げたのか? 凡な私には、ある種の超越的な、神がかり的なものさえ感じられるが、最早こうしたことについて「美意識の神」なんていう喩えをつかうことさえも恥ずかしく思われる。とかくこの一作から見せられる世界と言うのはこの上なく革新的で、新鮮であり、耽美の世界を知る上でも欠かせない作品になってくるであろうことは、間違いないだろう。