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映画:ルワンダの涙

映画

監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ
脚本:デヴィット・ウォルステンクロフト
製作:デヴィット・ベルトン

1994年に起きたルワンダ大虐殺を課題として、ルワンダの首都キガリの公立技術学校に通う少女と、学校に住まう神父や教師を主な登場人物に置き、フツ族による大虐殺を逃れ技術学校に避難した2000人のツチ族ルワンダ国民を描いた歴史映画。

「観ておくべき映画リスト」より選び抜き、観るに至った。
上述に書いたあらすじの通り、ルワンダ虐殺を描いた映画であり、同様の事柄を課題として製作された映画に「ホテル・ルワンダ」というものもある。一般的知名度としては、早くに製作されたこの「ホテル・ルワンダ」の方が有名である模様。

最近では、観覧中の無理解や、物語大筋をきちんと把握するために、DVDパッケージ裏のあらすじや主な内容についての説明文を読んでいるため、今回に限っては、訳も分からずに観ていく、というようなことは回避した上で観始めた。

見終わっての感想と言うのは、言葉どうこうで説明できるようなものではなく、頭を抱えて「あぁ……」と声を漏らすのが精一杯の、観ていて辛くなる映画だった。
観ている時の感覚は、先日観た「プライベートライアン」のそれに近い。内容では、”一方的な暴力と殺害””異国人による互いへの暴力、殺害”という風に大きく異なるが、「生の無力さ」「暴力、殺害」という部分を描いている点で、ひどく似通ったものを感じさせる(この”似通っている”というのが、理論的なものでなく、感覚的なものであるということ)。
兎角こういった人の生死に近づいた映画では、「死」について強く考えさせられる。今作ではフツ族過激派によるツチ族の虐殺という形で私に訴えかけて来るのだが、それに付け足して一つ訴えかけてくるのがクリストファー神父や実直な教師ジョー・コナーと言った白人たち、危険下に晒されながらも「傍観、逃避」という行為によって自らの安全を確保し、眼前の殺戮を逃れる事が出来る存在についての問題だ。
クリストファー神父や教師ジョーは、ルワンダの人々と密に接しながらも、立場そのものは白人でありルワンダ人を見捨てることによって、保身が可能であり、「ベルギー平和維持隊と共に撤退、本国に帰還」すれば、自らは平穏無事に後の生を全うできる立場にある(既に「ルワンダの公立技術学校の虐殺」という形で学習要項でも取り扱われることが多くあるため、内容については特に伏せずに感想を書いている。)が、聖職者として、教師として、ルワンダの人々共に歩んで来た事実を無視し本国に逃げていくのは、平和維持隊として、人格者として、神父として、人間として、如何なのか?どうするのが正しいか?という問題を、教師ジョーという二人の登場人物を介して、私に訴えかけてくる。――仮に人道を取ってツチの人々と共にフツ族に殺されたとして、それに何の意味があろうか?また、だからと言って自らが尽くした人々を見殺しにしてよいのか?歴史上に於いては「国際連合に平和を維持しようとする意志と、努力とが足りなかったのが原因であり、ルワンダ虐殺について国連が武力介入を命じるべきであった」という形で一つの正解がもたらされているが、実際にルワンダに居た「傍観することで安全を確保出来た人物」ひとりびとりに於いては、そんな大雑把な答えは正解にならない。
あの常軌を逸した殺戮下に自らが居たなら、どうしただろう、またどうすべきだっただろう?と言うのを考えずにはいられない。また、映画を観ながらの長い思索を経て達したクリストファー神父と教師ジョー・コナーによる二つの回答は非常に心動かされるものがある。

この映画が持つ一番のメッセージは、「ルワンダ虐殺」の事実の再確認であり、受動者自体は飽くまでその事件の一端を見る者、としてしか置かれていないが、私自身はただ事実を見るだけでなく「自らがその事件に関与できる人物であったならば、いかにすべきか?」と考えるのも一つの課題だったかな、と思う。
この事件についてもう少し詳しく観たいので、文献などを図書館なりで調べつつ、同じくルワンダ虐殺を描いた「ホテル・ルワンダ」の方も見てみたいと思う。