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子供はやがて子供ではなくなる。しかし、誰しもが大人になれるわけではない

私がこれから向かう先というのを、決めなくてはなりません。

数ヶ月前に私は「今はもう、時間に追われることはありませんから」と日記に書きましたが、それは大きな間違いであったみたいです。
昨年か今年の初め頃に、ある方にある事を申し上げたのを、この数ヶ月の間忘れていた。或いは、それを知りながら直視せずに過ごしていたらしいです。

私に残されている時間というのは、もう、それほど長くありません。不治の病を背負ったとか、そんなサナトリウム文学チックな話ではなく、現代社会に於いて重要なある一線を越えようという時期が私にも迫っているという、きわめて現実的な話です。
その時が来れば、私はある選択を迫られる……一言で、イエスノオで決められるような単純でない問題を携え、「その時」は容赦なく私の背後に立ち、がっちりと肩を捉まえた上で、私にロープを差し出すでしょう。

その時まで、私はどうして過ごしましょう。
何となくもうどうするかは決めているのですが、これは公然と誰彼に言えることではなく、ここでは言葉にするのを控えさせてもらいたいと思います。もっと個人的な事として、一人、或いは二人ほどに、ひっそりと今後について述べさせてもらおうと考えています。


最近、言葉で表現するという事の難しさというのを、再確認させられています。
どうも私は、ある物事を的確に描写するだけの語彙や表現能力というのが、身についていないらしいです。あれがあった、これがあった、こう思った、と短文短文の寄せ集めただけの、安っぽい短編小説のような感じです。

つい先日、ある軽小説を読んで「なんだい、これは。こんな程度の本が作品だなんて言えてしまうなら、僕にだって立派な作品を作れてしまうだろう。」等とつぶやいていたのが、恥ずかしい。
私は、一文一文に拘るばかりで、文全体の形というのを、意識出来ていなかったのです。
ここに見た一文が稚拙であっても、小奇麗にまとめられた文章というのは、やはり見栄えもよく好印象です。今の私は、何となく思いついた上手い一言を言えた事のみに満足して、それだけでゲエテやダンテに並んだかのように振る舞っている、世間知らずな阿呆です。

そればかりか在り来たりな定型文を使いまわすことでそれらしい文章を書いた気になって、個性の欠片もない文章を量産している、阿呆の極です。
もっと言葉というのを、私は知るべきなのです。文章にある一言一句についてもっと深く考えなければならない、言葉というのは、とても大切なものですから。