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2017/02/09 天気さえ許せば

日記

 その日は12時前後に目覚めた。前日に床に就いたのは1時前後といったところだったから、いつもよりもかなり長く眠ったことになる。
 普段のようにトイレに行こうとすばやく身体を持ち上げ、背筋を伸ばそうとしたところで、腰に激しい痛みを覚えた。その痛みはこれまでに負ったどの腰の痛みよりも強く、あまりの痛みに背筋を伸ばすことができないほどだった。その時点では突然身体を動かしたことによる瞬間的な痛みだと思ったのだけれど、用を足してひとまず布団の上に座っても、一向に痛みがなくなる気配はなく、それどころか腰回りには殴られたときのような鈍く、重たい痛みがじわじわと広がりつつあり、身体からは嫌な汗が滲み始めていた。

 思い返してみれば、前日の夕方ぐらいからどうにも調子が良くなかった。今のような激しい腰の痛みはなかったにしても、夕方頃から下腹部に鈍い痛みや違和感があったし、寝る前には普段使わない電気毛布を使ってもなお収まらないほど、ひどいふるえが数十分も続いていた。
 
 その日は気になっていたパラジャーノフの二本立て上映が行われる日で、昼すぎには家を出ているはずだった。けれど腰の痛みは立ち上がって背筋を伸ばそうとするたびにぶり返し、外に出るどころか、座ることさえ耐えられないくらいだった。とりあえずもう一度布団に入り、痛みが和らぐまで横になっていた。痛みの出ない姿勢をあれこれ探し、枕に布団を重ね頭の位置を高くし、横向きに寝転がるのが一番ましだと分かったところでその姿勢を保ったまま、ふたたび眠りに落ちた。
 起きたの15時をいくらか回ったところで、起きたときには体中がびっしょりと汗で濡れていた。汗を拭くために上半身を起こすと最初に起きたときと同じ痛みが腰にあらわれ、寝ていた時の汗に代わってまた嫌な汗がじわじわと身体から滲み出てきていた。私が『今日はもう映画に行くのは無理らしい』と悟ったのはこの時だった。思えばまったく馬鹿なことなのだけれど、この時まで私はたしかに映画を観に行く気だったし、実際腰の痛みなんてなくなってしまうだろうと考えていた。

 少しの間横になって痛みが引くのを待った後、何か食べるためにゆっくりと立ち上がった。それらしい準備をせずに食べられるものを簡単に探して、見つけたカップラーメンにお湯を注ぐと、そのまま布団の前に持っていき、てきとうに待った後、時間を確認せずにうずくまったまま食べた。そのカップラーメンはひどい味で、これまで食べたどのカップラーメンよりもまずいと言っていいくらいだった。もしかするとちゃんと時間を計らなかったせいだったのかもしれないし、あるいは不調のために味覚がおかしくなっていたのかもしれない。ただ、もし仮にそうだったとしても、私はもう、そうしなければならないという事態に遭遇することさえなければ二度とあのカップラーメンを食べたくないし、食べずに生きていきたいなと思う。
 とりあえず空腹が満たされると、もう動く意欲もなくなって、先ほどとおなじように横になり、2枚の布団でしっかりと身体を覆った。とにかく横になったまま暇を潰せるものを探し、最近は全く触っていなかった携帯ゲーム機をつけ、メモリーカードの中に入っていたゲームで遊んだ。それはふた昔前のような手触りのアドベンチャーゲームで、『宇宙船ダムレイ号』という名前だった。
 2時間ほど遊んだところで、ひどく頭が痛んできて中断し、それからしばらく、明日のことや、観に行くことがかなわなかったパラジャーノフの映画のことを考えた。考えているうちに目やにが気になって目を擦ると、突然目尻が滲みて痛み出し、涙がぼろぼろと流れ出した。どうやら昼の汗のためらしく、涙を拭おうと目を擦れば擦るほどひどく滲みて、いよいよ涙の出る量も増えていった。

 涙で目の周りの汗や垢が流されると痛みも引き、またいくらか気分も楽になった。気分を変えるために適当に音楽を流し、瞼を閉じて聴いていると、また眠りの中へ落ちていった。

 今度目が覚めたのは22時を過ぎたところで、尿意のために寝ぼけたままトイレに行こうとした時、あれほど激しく痛んでいた腰の痛みがほどんど――まったくと言っていいほどきれいになくなっていることに気づいた。長いこと眠ったことで頭は痛んでいたけれど、もう気分もだいぶ良くなっていた。
 用意されていたビーフシチューを2杯、ゆっくりと時間をかけて(そして、もちろん今度は椅子に座って!)食べた。食べ終わると、溜まっていた皿やなんかを洗い、それから綺麗になったキッチンでその日最初のコーヒーを淹れ、たっぷりと砂糖を入れて飲み、さらに棚にあったクリーム入りのチョコレートを一粒食べた。その日に朝起きてからずっと失われたままだった何か――ある種の充足感のようなものが身体の中からこみ上げてくるような、そんな感覚がした。
 その後、寝たのは日付が変わり、すっかり夜の明けた時間帯で、その日行くはずだったホドロフスキーの二本立ても、前日と同様に諦めることになった。


 ある時私は夢をみた。
 私は、2年ほど前に観たルイ・マルの映画で出てきたようなおしゃれなクリーム色のベスパに乗っていて、忘れてしまった運転の仕方を思い出しながらあちこちを走り回っている。あちこちを走り回り、帰ってくる頃には大量に汗を掻いていて、シャツまで濡れていた。私はシャワーを浴びようとバイクを駐車場に停めて降りようとした。すると目の前には髪の毛の薄い、腰を丸めた中年の男性が立っていて、不気味なほどにひとの良さそうな笑みを浮かべている。
 私はひそかに彼のことを恐ろしく思いながら、「こんにちは」と挨拶をする。彼は挨拶は返さず、不快な笑みを崩さずに「いいバイクですね」と言う。
 私は微笑して「ありがとうございます」と言いながらバイクのハンドルをふたたび握りしめ、しばらく俯いたまま黙っていた。それから素早く顔を上げ、叫ぶようにこう言う――「これは私の――いや、私のじゃない。私のバイクじゃない。そもそも私はバイクなんか持ってない!」そして目が醒める。
 そういう夢だった。
 

2017/01/27-(2) 自分の叫声を聞き

日記 喫茶店

 フィルムセンターを出たあたりから足の指が痛み始めていた。痛みは、4,5日ほど前にできた霜焼けのためだった。
 足の指に異常を覚えるようになったのは今年に、2017年になって間もない頃で、その時点ではまだ痛みではなく痺れで、座ったり横になっているときだけ断続的に足に痺れが出るといったくらいだった。私ははじめ、それはストレスのためなのだろうと考えていて――実際、月の半ばを過ぎるといくらか痺れは小さくなっていたのだけれど、完全には無くならないまま幾日か過ぎた。1月が下旬に入ったあたりから足の指が腫れはじめ、シャワーを浴びる時に湯が足先に当たると針で突かれたときような痛みが出るようになり、わずかな衣擦れでもひどく痛んで、2日ほど前までは靴下を履くのも億劫だった。
 私は地下鉄に乗り込み座席にありつくと、なんとか痛みが引かないかと熱心に足先を動かしたり、太ももを手のひらで擦ったりした。数分して、そうするのにも飽きてくると、近代美術館前の信号待ちの時のような、まったく馬鹿げた気分になってきて、私は訳もなく、『マルタの鷹』のボガートが飲み干したウィスキーのグラスをテーブルに叩きつけて激昂する場面を思い浮かべていた。この映画を観たのはもうかなり前(調べると、1年と17日前だった)で、格別気に入った映画だったわけでもないのだけれど、私はときどきにこの映画の、この場面を思い出すことがあった。
 
 20分ほどの間電車に揺られ続けて、終点の池袋で降りて、東口に出た。池袋に来たのは、いくらか探しものがあって、それを探すためだった。百貨店やら、名画座やら、中古ゲームショップやら、あちこちを歩き回った。ちょうどサンシャインビルのある通りは一番込み合う時間だったらしく大通りはとにかく人がいっぱいで、一つ隣の道に出ると今度は風俗店や居酒屋の客引きの女性が道の脇に何人かいて、大通りとはまた別の雰囲気を醸していた。
 目当てのものはどれも見つかったのだけれど、値段やら、デザインやらが気に食わなくて、結局目当てのものは何一つ買えないままふたたび電車に乗った。

 今度降りたのは新宿三丁目で、地上へ出ると先ず新宿御苑の方へ向かい、御苑前の喫茶チェーンに入ってレタスドッグとコーヒーを注文した。レタスドッグは普段食べているホットドッグに一枚レタスが挟まれただけの代物だったのだけれど、これが笑ってしまうくらいに美味しかった。
 注文を取ってくれた店員の女性は片言で――たぶん台湾人だったんじゃないかと思う。なぜだか分からないけれど、レタスドッグを頬張っている頃にはすでに彼女は台湾人に違いないという確信のようなものがあった。とは言え、実際には彼女が台湾人でなく中国人や韓国人であったとしても、あるいは他のアジア圏の人だったとしても、そこには何の違いも不具合も生まれることはないし、そもそも私が彼女がどこの国の出身なのかを推理すること自体、何の意味もないことだったのだけれど。
 昼過ぎから何も食べていなかったこともあって、レタスドッグはあっという間に胃の中に収められてしまった。ほとんど手を付けていなかったコーヒーはまだ十分に暖かくて、ひと口、ふた口と飲むと、腹の中からじんわりと熱が広がっていくのが分かった。コーヒーを飲み終えたあとは、すぐにコートを着なおして外に出た。多分、注文をしてから15分ほどしか経っていなかったんじゃないかと思う。

 今度はJRのある方へ向かい、先ず大型映画館で、近く公開される映画のチラシを何枚かもらい、ついでにトイレに寄った。トイレを出てすぐのところに、自分と同じくらいの年齢らしい男性がふたりいて、映画を観たあとどこに行くか、女の子たちはどこに行きたいと思っているだろうかとか、そういったことをあれこれ話していた。一通り話がまとまると二人はパチンと大きな音を立てて右手を握りあい、最後ににやりと笑ってロビーの方へと歩いていった。去っていく姿を眺めながら、私は彼らが女の子とのデートに失敗して、さっき手を握りあった時のような、大きな音が出るくらい女の子に引っ叩かれる姿を想像した。別に彼らを好ましく思わなかったわけではないけれど――なんとなく彼らは、女の子と抱き合う姿よりも、引っ叩かれて半べそをかいている姿のほうが魅力的に見えるような気がした。彼らの連れの女の子の姿は見ていなない。とくに気になりもしなかった。

 その日の目的はこれで終わりで、その後はいつものように意味もなく駅の周辺を早足で歩き回った。まずはJRの地下通路を通って西口まで歩いて、そこから南口改札前を通ってふたたび東口に戻り、今度は首都高へ繋がる四車線の道路をくぐって高島屋ビルに入り、JR東日本の本社へと繋がる陸橋を通って向かい側へ。そこからふたたび南口まで戻ると、今度は東口の飲食店街を適当に歩き回り、最後にマルイビル脇の地下鉄入り口から地下に入り、そのまま地下鉄に乗って帰った。その日持ってきた文庫本は、降りたときには234ページを示していた。

 買い物をするために最寄り駅よりひとつ前で降りると、駅員と東南アジア系の外国人3人が、あれこれカタコトの日本語で話をしていた。多少なり日本語で話せるなら私でも助けられるかもしれないと思って声をかけると、どうやら目的地の駅名とわずかな定型句――『アリガトウゴザイマス』とか、『オネガイシマス』とか、そういった言葉のほかには分からないようだった。ただ、間違って買ってしまったらしい切符をまず先に差し出してくれたので、あとは身振りで私が案内する旨を雑に伝えて、切符の払い戻しをした。その三人組はもうすっかり安心しきっていて、私が目を合わせるたびににっこりと笑って何度も「アリガトウゴザイマス」と片言の日本語でお礼をしてくれた。3人組のうちのふたりが女性、もうひとりは男性で、浅黒い肌を見てはじめ私は3つ、4つ上だろうと考えていたのだけれど、よく見るとそれほど老けておらず、女性の方はもしかするとまだ成人していないか、或いは成人して間もないくらいかもしれないとさえ思われた。
 無事切符を買いなおし、プラットフォームの番号と目的の駅に停まる列車の種類、それから「***に行きたいのですが、どうやって行けばいいか教えてください」と書いたメモを渡したあと、3人を見送った。3人は階段を下りるまでに何度も振り返り手を振ってくれた。

 買い物を済ませて家へと帰る途中、陸橋から眺めた新宿駅のプラットフォームや、片言の「アリガトウゴザイマス」や、池袋のガールズバーの客引きの女性の大きなつけ睫毛や、フィルムセンターで延々と流されていた奇妙な歌や、レタスドッグにかぶりついた時のぷちっというソーセージの皮が弾ける感触が次々に思い出されて、私は今にも笑い出しそうな、泣き出しそうな気分だった。

2017/01/27-(1) なんのためにそんな手間を

日記 映画

 ひと月ほどの間国立近代美術館の分館のフィルムセンターにて開催されていた戦後東ドイツの映画ポスターの小規模展示*1を観に行ってきた。その日家を出たのは13時過ぎで、その前に、近く必要になるはずのものなどを買い漁っていると、電車に乗る頃にはすでに14時を回っていた。
 途中で一度下車してメトロの1日乗車券を買い、それから国立近代美術館のある竹橋へ向かった。飯田橋で乗り換える際に、5年ほど前に同じようにひとりで竹橋に行こうとした時(たしかその時の目当てはパウル・クレーの特集展示とか、そんなものだったと思う)、乗り換え方が分からずそのまま改札を出て、あちこち歩き回った挙句隣の神楽坂まで行ってしまったことを思い出した。幸いにも目当ての路線だったからその日は無事たどり着くことができたのだけれど、しばらくしてから間違いに気づいて、余計に運賃を払ってしまったことに腹を立てていたのをまだ覚えている。私はこれから先、近代美術館に行くために飯田橋で乗り換えるたびに――場合によっては飯田橋で降りるたびに、そのことを思い出すのかもしれない。

 今回は問題なく竹橋にたどり着いたのだけれど、それとは別に間違いがあった。美術館まで行ってもフィルムセンターの文字がまったく見えて来ないので本館の受付の女性にフィルムセンターはどこにあるのかと聞くと、ここではなくここから銀座方面に地下鉄を乗り継いだ先の京橋というところにある、という話だった。行く前に地図検索で予め簡単に場所を調べておいてはいたのだけれど、どうやら誤った位置をサジェストされたらしかった。受付の女性は私が“フィルムセンター”と言うとすぐにメトロの乗換案内と、竹橋から京橋までの行き方の書かれた黄色い紙を提示しながら丁寧に説明してくれた。たぶん、私のように勘違いしてくる人は案外少なくないのだろう。
 案内の紙はいただいても構いませんかと聞くと、「どうぞお持ちになってください」と、まったく綺麗な言葉で、さらに笑顔まで添えて言ってくれたので、提示された案内を一通りもらい、お礼を言って外に出た。美術館を出てすぐの、地下鉄入口前の交差点で信号を待っていると、あの礼儀作法の教習用映像みたいに丁寧な受付の女性の姿が思い起こされて、私はなんだか気恥ずかしくて、みじめな気分だった。

 地下鉄の乗り換えは今度も問題なく、京橋で降りたあとの地上出口まで完璧だった。その上ちょうど私の前に同じくフィルムセンターに行くらしい男性がいた(スーツの男性やお金持ちらしい年配の男性なんかがほとんどの中で、彼だけが私と同じような軽めの格好をしていた)ので、さり気なくその後ろへ着いていくと、迷うことなくまっすぐフィルムセンターのあるビルのフィルムセンターのあるフロアまでたどり着くことができた。

 特集展示は展示室の最奥にあり、手前の常設展示には日本映画黎明期の機材やポスターのほか、フィルム映像のデジタルコピー映像などが座って閲覧できた。川端康成原作・脚本参加の『狂つた一頁』の一部や、1923年の関東大震災直後に撮影された映像資料なんかがあって、人によってはひとつひとつしっかり映像をチェックしていたけれど、私はそのうちで気になったものだけ観て、あとはゆっくり歩きながら少し観るだけにとどめた。
 実写映像のほか、アニメーションにもスペースが割かれていて、一般的な絵によるアニメーションや、切り紙やクレイアニメの映像資料*2があった。特集展示のスペースの手前には切り紙アニメーションの短い資料映像があったのだけれど、映像と一緒に童話風の不思議な歌が流れていて、近くで聴いているとなんだか妙な気分だった。その上、なかなか大きな音で再生されているから、少し離れていても耳に入ってくる。特集展示のスペースまで行ってもまだうっすら聴こえるものだから、このまま聴いていると耳について離れなくなりそうだった。

 特集展示で展示されていたポスターは西ドイツで製作された欧州ヌーヴェルヴァーグベルイマンヴィスコンティ、タチといった名匠の作品が主で、日本映画もいくつかあった。東ドイツ製作のものは共産主義圏の映画が中心で、戦前ドイツや戦後フランスの作品も見られた。
 東ドイツの作品はいずれも日本未公開で名前もまったく聞いたことがないものだったから詳しいことはよくわからなかったけれど、一般市民や労働者が主役の映画が多く、共産思想の啓蒙も兼ねているらしかった。とは言え、ポスターのデザインはそうしたプロバガンダ色は薄く、ポスターだけではどういった映画なのかまったく想像がつかなかったし、もしかするとそれほど政治的色彩が濃いわけでもないのかもしれない。東ドイツのものでとりわけ私が気に入ったのは、子どもの手らしい写真の切り抜きが白背景にぽつんと載っているだけの作品で、それはルイ・マルの『さよなら子供たち』のポスターだった。このポスターのみではまったく映画の内容について見当がつかないし、それどころか、このポスターを作った人自身、内容を類推させる気さえない――さらに極端な言い方をするなら、映画と関係なしに製作した作品をポスターにあてたようにも思えた。けれども、私はそれが気に入った。他にも印象的だったものはいくつかあったはずだけれども、もう記憶は薄らいでいて、それがなんという映画のポスターだったのか忘れてしまった。この『さよなら子供たち』のポスターに限らずほとんどのポスターは抽象的で捉えどころがなく、はっきりと「これはあの映画のポスターだ」と直感で分かるような要素に乏しかったから、それも仕方がないことのような気もする。

 一時間と少しほどの間、ポスターや展示物を観ていた。いつもよりはテンポよく見て回っていたような気がするけれど、ふだんとそれほどには変わりがなかった。
 ロビーに戻ってチラシやなんかを眺めていると、丸っこい体型をしたモッズコートを着た金髪の女の子と、その子と同じくらいの背丈の女の子が受付の女性に特集展示の目録はいくらかとか、過去の目録はどんなものがあるのかとか、大きな声で話していた。女の子の声はほんとうにうるさくて、なんだか聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいだった。
 とくに興味を惹くチラシがないのが分かったところで足早にエレベーターに乗り込み、7階から1階まで下っていった。下へと静かに落ちていく感覚を味わいながらなんとなく、さっきの女の子はたぶんとてもいい人なのだろう、と思った。それから、あの子たちは多分美術系の大学に通っているのだ、と考えた。フィルムセンターのあるビルを出て、地下鉄への階段を下っていく頃にはその想像はなにか確信めいたものを帯びはじめていて、そもそも芸大に通っていると彼女たち自身の口から聞いたような気さえしていた。

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*1:戦後ドイツの映画ポスター | 東京国立近代美術館フィルムセンター

*2:余談だけれど、最近になってフィルムセンター所蔵のアニメーションの映像資料の一部がウェブサイト『日本アニメーション映画クラシックス』にて閲覧できるようになっている。